人体実験の歴史

 このブログに時折書くが、「最初に○○したやつ」問題を考えるのは楽しい。例えば、最初に納豆を食ってみたやつ。よくまああんな、いかにも「腐ってます」という見た目・臭いのものを食べる気になったものだ。よほど腹が減っていたのか。

 あるいは、フグの調理法。「魚だ、魚だ」と喜んで最初に食ったやつは、ま、おそらく頓死したろう。そういう例が二、三人出れば、「フグはやばいらしい」という知識は広まるだろうが、では、「ここは食えるが、ここは食えない」という知識はどうやって獲得したのだろうか。食ってみて無事だったケース、無事じゃなかったケースを整理していったのか。だとしたら、フグ調理法の歴史とは犠牲者の歴史とも言える。それとも、犬猫にでも食わせて、「動物実験」したのだろうか。

 これが医学、ことに和漢のほうのそれとなると、もっと凄まじい気がする。

 例えば、鍼治療なんてどうやって治療法を確立したのか、不思議に思う。最初に体のアチコチに鍼を刺してみたやつも不思議だが(呪術と関係あったのかもしれない)、「ここがツボ」「ここに刺すとこういう効果がある」と解明していくプロセスも、考えてみると迂遠かつオソロシイ。

「(ま、ここらに刺してみるか)」
「イテテテテ」
「(ちと違ったか)えいッ」
「あ、今度は痛くありません」
「はは。ここがツボだった。次、ここ!」
「ぎゃははは」
「お。笑った。メモしとこう。『笑う』、と。ハイ、ここ!」
「わー。先生、血がドバドバ出てきました!」
「大丈夫じゃ。まかせなさい。(ヤバかったな……)じゃあ、ここッ!」
「びびびびびび」
「おお、痺れた、痺れた。『痙攣する』、と。では、ここはどうだッ!!」
「うぐ」
「あれ、動かなくなっちゃったよ。もしもし。もしもーし」

 などという鍼医と患者の命懸けのコラボレーションが、しかも多々あったのか。「鍼治療は中国四千年の人体実験の成果」という説もある。もしそうなら、知識が蓄積されている過程には、当然、数々の失敗例があったはずだ。確立した治療法を享受している現代の我々は、犠牲者の皆様に足を向けて寝られないと思うのである(残念ながら、どっちにいらっしゃるのかわからないのだが)。

 あるいは、薬草の効能なんていうのも、手探りで見つけていくしかなかったろう。似た形やにおいの草だからといって、同じ効能があるとは限らない。下痢止めの薬草だろうと与えたら実は下剤で、もっと悲惨なことになった、なんていうケースもあったんではないか。トリカブトに当たったやつなんて災難である。

 歴史というと派手なところにばかり目が行きがちだが、累々たる積み重ねというのもあるのであって、わしらは過去に足を向けて寝られないと思うのである。