斬捨御免

 武士道というものに憧れたり、サムライを自分で気取ったりする人がいる。


 何しろ、侍身分につきまとう面倒くさい儀礼だの、格式を保つための造作や身のこしらえだの、それらにかかる費用の工面だののほうは心配せずに済み、「おれはサムライだ」と心に唱えるだけで己を高めた気分になれるのだから、大変に重宝である。


 お金がなくったって、「痩せても枯れても武士は武士」とか、内心、うそぶいていればよい。
 お金を得ることに汲々としている人々を、フフン、と鼻で笑うこともできる。


 まあ、サムライをもって任ずるのは各人の勝手だが、だったら、せめてチョンマゲくらい結え、と思う。都合のいいところだけ利用するのは卑怯というものであろう。


 サムライになることの最大の魅力に、無礼討ちをできることがありますね。百姓や町人を叩っ斬ってしまえる。
 いわゆる、斬捨御免。



斬り捨てて、ゴメン!


 いや、そうではない。御免といっても、謝れば済むという話ではない。


 単にこやつ気に食わぬから斬る、というわけにはいかず、武士(階級)の尊厳が、下の身分の者に侵されたとき、初めてオッケーとなったらしい。


 実際には、目撃者が必要だったり、斬り捨てた後に面倒な手続きがあったりと厄介で、そう簡単に斬捨御免というわけにはいかなかったようだ。


 それはそうで、農工商を自由に斬ってもオッケー、ということにしてしまっては、金を借りては叩っ斬ったり、むしゃくしゃしては首を刎ねたりと、不埒な者がわんさか出てくるだろう。
 それでは世の中、立ちゆかない。この世は真っ暗闇じゃあござんせんか。


 斬捨御免には、身分制度を厳に守るための、抑止力としての意味もあったのだろう。
 だから、四民平等の世の中となったら、自動的に斬捨御免の制度はなくなった。


 今は何だろう。自称・サムライの人々がサムライでない者を言葉で、あるいは内心密かに蹴落とすことが、斬捨御免かもしれない。
 制度から自己愛の問題へとすり替わってしまったようである。

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「今日の嘘八百」


嘘七百三十五 水戸黄門一行が通り過ぎると、地域の人口がだいぶ減ったらしい。