行くと来る

 英語はよくわからぬのだけれども、日本語で「行く」というところを、しばしば英語では「来る」、“come”と表現するのはなかなか興味深い。


 例のウッフンアッハン方面でもそういう違いがあるようだが、それについては置いておく。


 人を応援するとき、日本語では「行け〜!」などと言うが、英語では“Come on!”と言う(らしい)。


 日本人は対象に向かって自ら進むことにプラスの価値を見出し、英米人は自己を中心として引き寄せることに価値を見出すのだ、と決めつけるのはあまりに乱暴であることは言うまでもない(なら、言うな)。


 が、しかし、こういうイメージの捉え方の違いというのは、なかなか面白いと思うのよね。


 日本では、「道」というイメージがたいそう喜ばれる。「道を極める」とか(あ、それはヤクザか)、茶道、歌道、さらには野球道、この間なんぞ、どこかのページで「アニメ道を究める」という文章を見て、驚いた覚えがある。まあ、冗談まじりなんでしょうが。


 日本語の、「その道の大家」なんていう言い回しは、人間、やはり、自らの専門において深いところまで進むべきである、という考え方があるから、出てくるのだろうか。


 英語だと(和英辞典で見たんだが)、“an expert in the field”だそうで、「道」と“field”という表現の違いは、日本語の「行く」と英語の“come”のイメージの捉え方の違いにも通じるような気がすると思わないでもないこともなかったりするのかもしれないのだったりしてとまで言ってしまうのはさすがに乱暴か。


 まあ、英語にも“the road to ナントカ”という表現とか、「マイ・ウェイ」なんていう歌はあるわけですが。


 最初に戻って、日本語世界では「行く」というイメージを、基本的に好ましい印象で捉えている。


 司馬遼太郎センセイの「竜馬がゆく」はやはり「ゆく」だから、セーショーネンの血をたぎらせるわけで、あれが「竜馬が来る」では、斬りに来るのか、バケて出るのか、どちらにせよ、オソロしい。


 同じ司馬センセの「街道をゆく」も、「街道から来る」ではいささか一方的で、迷惑な気もする。


 いや、遠慮しときますヨ。カステラなんか持ってこられてもねえ。

                  • -


「今日の嘘八百」


嘘五百三十一 日露戦争が終わって、よく見てみたら、「坂の上の雨雲」だったそうだ。