見立て

「三日月女郎」という言い回しには、見立ての要素も入っている。


 宵の口にちょっと見えたばかりで、それぎり隠れてしまった女郎を、雲間にちらりと見えた三日月に見立てているわけである。


 この手の見立てが抜群に上手いのが、毎度、例に出してしまうが、古今亭志ん生だ。


 例えば、「鮑のし」にこんな一節がある。
 ぽーっとしている甚兵衛さんが近所の山田さんに金を借りにいくが、断られてしまう。しかし、甚兵衛さんには貸さないが、しっかり者のおかみさんになら貸すと言う。


甚兵衛さん「面白くねえね!」
山田さん「どうして」
甚兵衛さん「どうしてって、そうじゃねえか。おれには貸さねえのかい」
山田さん「貸さねえのかい、ったって、おまえさんに貸したって、取る当てがねえもの。おまえさんに貸しゃ、出しっぱなしになっちゃう。公園の水道みたいになっちゃうからダメだ」


(「鮑のし - ザ・ベリー・ベスト・オブ・志ん生」、東宝ミュージック


「公園の水道、出しっぱなし」なんて、よくまあ、そんな光景を引っ張り出すものである。
 こういうのは、「問答」(例の「○○と掛けまして、□□と解く。そのココロは〜」というやつ)のセンスから来ているのだろうか。


「文違い」のマクラで、女性が化粧しているところの描写。


お芝居なんぞ行こうなんてときに、鏡台の前へ座った日にゃあ大変ですな。鏡とこう、にらめっこしておりますね。ええ。下塗りから中塗りから上塗りまで、すっかり塗り上げちゃうってえと、ずーっと鏡のところに顔を持ってきましてな。近眼(ちかめ)が水族館入ったような目ェして。


(「文違い - 志ん生ベスト集」、コロムビアミュージックエンタテインメントASIN:B00005HSO9


 こういうのは、書き写してるだけでウレしくなってくる。


「風呂敷」で、出かけようとする亭主に、女郎買いか酒を飲みにでも行くんじゃないかと心配なんだろう、おかみさんが詰問する。


おかみさん「おまえさんの出かける先は、どこぉっ?!」
亭主「大きな声だねえ。おれは屋根にあがってんじゃないよ、おい。ええっ?! 当たり前の口をきいたらいいだろ。おまえは家の中で船を見送るような声を出してね。いけませんよ、そりゃ。本当に」
(中略)
おかみさん「どこかへ出ていっちゃ、引っかかろうってんだろ。決まってやがら。出ると、引っかかること考えてやがら。ざまあみやがれ、上げ潮のゴミっ!」
亭主「上げ潮のゴミたぁ何だい?」
おかみさん「引っかかっちゃうからよ」
亭主「何を言いやがんだい。上げ潮のゴミはな、引っかかりたがって流れてるかよ。ゴミのほうじゃ、ずーっと流れようと思ってるけども、何かあるから引っかかっちゃうんじゃねえか。ええっ?! ゴミの了見も知りやがらねえで。本当に。おれは――」
おかみさん「そうはいかないんだよ。あたしはおまえさんのね、女房だから!」
亭主「女房?! 二言目には『女房』。おまえなんざ女房ってほどのもんじゃねえんだよ! シャツの三つ目のボタンみたいなもんでね、あってもなくてもいいんだ、おめえなんざ!」


(「風呂敷 - 志ん生ベスト集」、コロムビアミュージックエンタテインメントASIN:B00005HSO9


「船を見送るような声」、「上げ潮のゴミ」、「シャツの三つ目のボタン」と、わずか1分ばかりの間に、見立てのてんこ盛りである。志ん生師匠、アグレッシヴだ。


 まあ、志ん生クラスの表現は無理としても、こういう言葉の遊びが日常生活の中に普通にあったら、よほど豊かな世の中だと思う。
 お洒落より、洒落。だと、思うんだが。

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「今日の嘘八百」


嘘四百三十六 古今和歌集は、駄洒落、オヤジギャグの宝庫である。