土石流家元・稲本喜之介先生

 えー、文章道土石流家元、稲本喜之介でございます。


 我が土石流は、かの「土佐日記」をオカマと化して綴ったことで有名な紀貫之の直系子孫の姻戚の隣に住んでいた誰かの友達の連帯保証人の家に書生として住んでいた人と二、三度話したことのある稲本某翁(「ぼうおう」という名前だったのでございます)が仁和三年、裏山から押し寄せる土砂に巻き込まれながらついでに開いたという由緒ある流派でございまして、当代、すなわち私で十二代目を数えるわけでございます。


 でありますから、四百字五千円という単価の安さも知らずに物を書く仕事に何となく憧れているセーショーネンが何となく通う専門学校でありますとか、自分探しとやらをしているOLや「日常のさりげない出来事」を綴る生活エッセイなる不可解なシロモノに惹かれる専業主婦を飯の種にしているカルチャー・スクールと同じように見られるのは、甚だ迷惑な話なのでございます。


 さて、何事も基本が大事ということは言うまでもございません。言うまでもございませんと言いながら、なぜ言うのか、という疑問もございましょうが、その答は、「竹の山風」の許状の後にお教えいたしましょう。


 文章を書く際の基本は、まず姿勢でございます。
 剣術、あるいは茶道でも、能狂言でも同じでございますが、背筋を伸ばす、左右にぶれることなく体の中心線を意識してむしろ反り返るくらいの気持ちで立ち居振る舞いをする、これが日本の伝統的技芸に共通する姿勢でございます。


 しかし、我が土石流ではこのような考え方をとりません。なぜなら、“疲れる”からでございます。


 背中はむしろ猫背がよい。頭は重みに従って自然に前に垂れてかまわない。場合によっては、机に片肘ついて頬を支える、いわゆる頬杖をつく姿勢をとるべきである。と、このように考えるわけでございます。なぜなら、そっちのほうが“楽”だからでございます。


 なお、これはやや応用に属す話ですが、頬杖をついた際に「ちっ」と軽く舌打ちしてみるのも投げ遣りな気分になって、大変に結構なものでございます。


 呼吸法。これも文章を書く際には大切でございます。
 土石流における基本は、吸ったら吐く、吐いたら吸う。この繰り返しでございます。なぜなら、吸ったら吸う、では、すぐに肺がいっぱいになってしまいますし、吐いたら吐く、では苦しくなってしまうからです。意外と忘れがちなことなので、よく覚えておいてください。


 続いて手の使い方ですが、これはいわば文章を書く際のキモと申せましょう。

 土石流三代目・稲本ジョン之介――開祖・某翁が雌犬、びっちのメリーさんとの間にもうけた庶子と伝え聞いております――に、「文章は心で書くものではありません。手で書くものです」と金次郎時代の二宮尊徳に説いた、という話がございます。この言に感銘を受けた二宮尊徳は、生涯、文章をテキトーに書いていたと申します。


 さて、筆・鉛筆・ボールペンの類であれば、初歩の段階では難しいことはありません。
 筆記具を手に取り、そのまま先端を紙におろせば結構です。ただし、ボールペンの場合はキャップを外す、シャープペンシルであれば芯を出す(出し過ぎないように!)ことを忘れないようにしてください。


 いささか厄介なのは、近年、普及しているキーボードを使う際の手の使い方です。


 両手が空いていれば、親指をスペースバーの上に軽く載せ、左手の中指をEのキー、右手の中指をIのキーに載せる。T、G、Bのキーから左は左手の領分、Y、H、Nから右は右手の領分とすれば結構です。


 問題は、先ほど申しましたいわゆる頬杖をつく姿勢をとっている場合です。この場合、右利きの方なら左手、左利きの方なら右手を頬にあてがっているため、使えません。


 では、どうするか。我が土石流では、人差し指だけでキーを打つポチポチ打ちを提唱しております。


 頬杖をつきながら人差し指でポチポチ打ちをする。時折、あくびをしてみたり、「はああ」と息を漏らしてみたりする。不思議なことに、そうするだけで心が緩くなり、精神を解き放つことが可能となります。この状態を我が土石流では「気を抜く」と呼び、文章道の理想の境地として尊重しております。


 初めてのお稽古なのに、随分、時間をとらせました。私もポチポチ打ちでこれを書いているので、半日もかかってしまいました。今、非常に気が抜けた状態でございます。


 次回は「立て膝」についてお教えしましょう。千里の道も一歩目からすっ転ぶ、と申します。その際は諦めてください。

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「今日の嘘八百」


嘘三百八十五 大和魂を英語ではジャパニーズ・ガッツと呼ぶ。


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