お役所仕事について

 別の区に引っ越すことになったので、住民票の届出ってどうなるのかしらん、と調べてみたら、マイナンバーカードが必要だという。

 今まで特に必要なかったのでつくっていなかった。あらためて調べてみると申請してから1ヶ月もかかるという。何にそんな手間がかかるのだろうか。いかにもお役所仕事である。

 ついでに言うと、マイナンバーカードのWebページに「メリットいっぱい! マイナンバーカード」として、こんなことが書いてある。

 

1.本人確認書類になる

2.コンビニで各種証明書が取得できる

3.健康保険証としても使える

4.マイナポイントももらえる

5.新型コロナワクチン接種証明書の電子交付にも利用

6.オンラインで行政手続

7.「マイナポータル」で暮らしがもっと便利に

8.民間のサービスでも使える

 

 わし、そんなもんイランケンシュタイン、と思う。他の手段でできるか、使わないかである。4のマイナポイントはマイナンバーカードがなかなか普及しないので特典ぽくつけてみたんだろうが、原資は税金であるからして、無駄に使うな、と思う。行政側の都合のいいようにつくった制度をなんとか便利そうに見せかけているだけなんだろう。「メリットいっぱい!」などとはしゃいで見せたところがかえって哀しい。

 マイナンバーカードはいかにもお役所仕事という感じだが、もうひとつ、おれの身近なお役所仕事を紹介する。最寄りの駅前風景だ。

 

 

 駐輪禁止のコーンが壁から離れて置かれ、その外に自転車が止められている。区役所が駐輪禁止のコーンを置いたせいで、かえって人の歩けるところが狭くなってしまった。こういうのを本末転倒というんじゃなかろうか。

 お役所仕事には時間がかかるということとともに、形式主義ということがある。この駅前の駐輪禁止、典型的な形式主義だと思うのよね。

選挙カー

 隣の区で区議会選挙があるせいで、選挙カーが近くを走り回っている。

 ただただ名前をわめき散らすばかりで、実にうるさい。

 名前を連呼するのは、公職選挙法で、選挙カーでは連呼のみが許されるとされているからだそうだ。不思議な規定である。

 候補者の側からすると、有権者に名前を刷り込んでしまおうというもくろみなのだろう。刷り込みによる投票ってなんなのだ。

 なんとなく覚えている人に投票するというのは、間違いとは言わないが、そんなことでいいのか民主主義、と思う。

 おれは選挙については割と直線的に考えていて、候補者の政策を評価して相対的に上と判断した人に投票するのがよいと考えている。

 しかるに、今の選挙は選挙カーのわめき散らしやポスターの作り笑いと一言コピー(「実行力。」とか「改革断行。」とか「若さでチャレンジ。」とかどうでもいいものばかりだ)で名前を覚えてもらい、書いてもらう、という、低レベルな行為がまかり通っている。

 選挙公報をちゃんと読めば、誰が何をしようとしているのか、よさそうなのか、だめそうなのかは大体わかる。

 公職選挙法選挙カーのルールを定めるより、禁止したほうがよかろうと思う。安倍元首相が撃たれたとき、「民主主義の危機だ!」とあわてたことを言い出す人がいたが(まったくそうは思えない)、選挙カーを放置していることのほうがよっぽど民主主義の危機だと思う。

漫画とアニメは違う

 おれは日本のアニメが嫌いで、ほとんど見ることがない。二十代の頃はそれでも宮崎駿のアニメを見たりしていたが、あるとき、大仰でわざとらしい演出に嫌気がさして、それ以来見ていない。宮崎駿に限らず、日本のアニメは演出が大仰であざとく、全体に子供っぽく、声優のセリフまわしも変な癖や抑揚、わざとらしさがあって、好きになれない。

 漫画は好きでよく読む。売れた漫画の本の帯にはよく「アニメ化決定!」などと書いてあることがあり、不思議に思う。なぜ安易にアニメ化するのだろうか。

 まあ、話題になった漫画はアニメでも人気が出るだろう、という商売上の判断はわかる。しかし、もうひとつ、やたらとアニメ化される背景には、漫画とアニメは近いという誤解があるんじゃないかと思う。

 漫画とアニメは全然別物である。漫画は、たとえアシスタントを使うことがあっても、基本は漫画家個人の作品だ。コマ割りも、絵も、セリフも、ストーリーの流れも、漫画家の創作物である。今、細かく分解して書いたけれども、コマ割り、絵、セリフ、ストーリーの流れが渾然一体となって構想され、実現されていく。

 一方で、アニメは集団の創作物である。監督がいるにしても、作画担当が複数いて、シナリオライターがいて、編集係がいて、声優がいる。音楽担当もいる。

 漫画とアニメは、いわば、小説と映画くらい違うものだと思う。

 しかるに、なぜ漫画とアニメが近いものに思われているかというと、おそらく、「絵を似せられる」という一点のせいだろう。これが誤解のもとだと思う(もちろん、似せられるというだけで、全然別物である)。正確には「構図を似せられる」だけだ。

 漫画と、それを原作にした実写作品は全然別物として捉えられるだろう。しかし、漫画とそのアニメ化作品は同類のように捉えられてしまう。漫画家に失礼だとおれは思う。

台風の影響力

 今日の東京は台風が近づいている影響で、大雨が降ったりやんだりしている。

 降るときには激しく、いわゆる「滝のような雨」なのだが、ふっとやんだりする。相当に大気が不安定なのだろう。

 毎年、台風が来るたびに、その威力に感心する。よくまあ、こんなに上空に水を汲み上げて落とすものだ、よくまあ、こんな広い範囲でぐるぐる蛸の足のような雲をまわすものだ、とそんなふうに思う。

 少し前に「気候で読む日本史」という本を読んだ。奈良時代以降、江戸時代まで、気候がどのように歴史に影響を与えてきたかという内容で、興味深かった。

 歴史的に不作を呼び込む二大要因は寒冷と日照り(旱魃)のようだ。寒い、あるいは水不足になると作物が育たず、作物が育たないと飢饉になり、飢饉になると人々がさまざまな非常な方向へと活動し、歴史が大きく動くことになる。

 意外と台風が大きな不作を呼んだ例は少ないようだ。台風によって作物が荒らされることは多いのだろうが、寒冷や日照りに比べると局所的で、他の地域の作物でカバーできるのかもしれない。あるいは記録が限られている可能性もある。

 台風が来るといろいろと不便だが、割りに短期で勝負がつく。台風が通り過ぎた後は空気が洗い清められ、いわゆる台風一過の美しい青空が広がることが多い。

 おれはそれほど台風が嫌いではないな、と思う。

ユンケルレーシング

 レッドブルがのしてきたのはいつ頃だろうか。今ではどこのコンビニにも置いてある。気軽に飲める栄養ドリンクというイメージだ。

 元々は日本の栄養ドリンクからヒントを得てつくられたという話もある。日本のサラリーマンがアリナミンAやリポビタンDをクイッと飲んで、仕事に立ち向かうイメージだろうか。

 レッドブルはプロモーション戦略も上手い。「エネルギー」を感じさせるスポーツにお金を落とし、直接チームを持ったり、スポンサードしたりしている。

 F1ではレッドブル・レーシングを持っている。サッカーではレッドブルザルツブルグRBライプツィヒレッドブル・ニューヨークを所有している。レッドブル系のチームは選手やスタッフの行き来も割りに多い印象がある。

 日本の栄養ドリンクはプロモーション戦略がレッドブルほど徹底していなかったように思う。市場が日本国内中心で、レッドブルのように営業、プロモーションを世界レベルで行うところまでいかなかったのかもしれない。

 F1にユンケル・レーシング、サッカーにユンケル・ザルツブルグ、YKライプツィヒ、ユンケル・ニューヨークなんかがあったら楽しいのだが、せいぜいタモリでCMをつくるところまでで、野心がレッドブルほどではなかったということなのかもしれない。

蜘蛛

 部屋の中に小さい、5mmほどの蜘蛛がいる。巣を張るタイプではなくて、壁や床を素早く這うタイプだ。

 蜘蛛の嫌いな人は蛇が平気で、蛇の嫌いな人は蜘蛛が平気という話がある。本当かどうかわからないが、おれは蜘蛛は平気だが、蛇は大の苦手である。

 部屋の中の蜘蛛は何を食べて生きているのだろう。小蝿か何かだろうか。かなり早く移動するが、飛べるわけでもなし、どうやって小蝿を捕まえているのかよくわからない。たまたま小蝿がどこかに留まったときだろうか。蜘蛛からしてみれば、壁も床も相当広いだろうに、よく獲物を捕まえられるものだと思う。

 が、まあ、生きているからにはそれなりに餌を捕獲しているのだろう。

 部屋の中の掃除をしてくれているように思い、おれは蜘蛛を放っておいている。いや、むしろ、少し感謝すらしている。

セミの一生

 自転車で羽田あたりまで行った。

 緑の多いところではセミが盛大に鳴いていた。夏ももう終わりだから、最後のひと騒ぎというところだろう。

 セミは幼虫時代、土の中で樹液を吸って暮らす。7年土の中で過ごすという話もあるが、それは外国のセミで、日本のアブラゼミは3、4年くらいらしい。

 何年もの間、幼虫として土の中で暮らし、夏のあるときに急に思い立つのか、地面に這い出し、木を登り始める。ある程度登ったところで止まり、幼虫の殻を割るようにして中から成虫として出てくる。羽化、と呼ばれる行為だ。自分の中から別の自分が出てくるというのはどんな感覚なのだろうか。人間で想像すると、なかなかに気色悪い。

 成虫になると、一週間ほど生き、その間にうまくいけば交尾し、メスは木に卵を生みつける。そうして、オスもメスも死んでしまう。夏にはよく地面の上にセミの死骸を見つける。

 何年も土の中で暮らし、交尾と産卵のためだけに成虫となって一週間ほどで死んでしまう。ある意味、劇的な人生である。セミだからセミ生か。

 このサイクルをずっと繰り返しながら、セミという種は続いてきた。

 つくづく進化というのは不思議だと思う。たまたま出来上がったある組成の物質を放っておいたら、いつのまにかさまざまな生態、形態の動植物へと広がっていって、中にはセミのようなサイクルを作り出す種も出てくる。

 よく「〇〇するために進化した」という言い方をするけれども、おそらく進化に意志は働いていない。いろいろな変異の中で環境に適したものだけが残っていく。その繰り返しで複雑な生のかたちができあがっていく。

 セミの生もまた意志ではなく、たまたまの変異の結果として、できあがった。やはり、不思議だ。