イタい単純化

 人間はつい単純化してしまいがちな生き物であって、おそらくは複雑なものを複雑なまま捉えるということがとても難しいからだろう。

 学問方面の「理論」というのもおそらくは単純化のためである(というのまとめ方も単純化だ)。理論によって単純化することによって、理解しやすくなったり、理論を展開しやすくなったりする。

 しかしまあ、単純化が全てバンザイ! というわけにはいかなくて、中には「これはイタい」と思わせる単純化や、時に害悪ではないか、という単純化もある。そうした例をいくつか挙げてみたい。

 

1. 日本人は農耕民族

 ワハハ。いきなり出た。

 どういうわけか、こういう捉え方をする人は少なくない。「日本人は農耕民族だから〇〇する」。その対として、「欧米人は狩猟民族だから〇〇する」というふうに話を展開することが多い。ネットで「農耕民族」と検索してみれば、この手の話はわんさと出てくる。

 しかし、イタい、というか、間抜けな捉え方である。

 まず日本人が農耕民族だとしたら、漁師さんをどう考えればよいのだろう。マタギはどうなるのか。

 まあ、昔は百姓の割合が多かったので日本人は農耕民族だった、と百歩ゆずって認めるとしても、中国人は、韓国人は、タイ人は、インド人は、どうなるのだろう。おれの知る限り、彼らも農耕をする人が多かったはずだ。としたら、彼らと日本人は同じ性向を持っていることになる。持っていたっていいが、世界中は農耕民族だらけで、とても農耕民族だから云々という話はできないんじゃないか。

 欧米人が狩猟民族という話もどこから出てきたんだろう。そりゃまあ、二千年前、三千年前は知らないが、おれの知っている限り、フランス人だって、ドイツ人だって、イギリス人だって、イタリア人だって、随分昔から農耕しているぞ。

 

2. 「海外では」

 さっきの農耕民族バナシにも似ているところがあるんだが、簡単に「海外では〜」と言い出す人がいる。

 海外、と言ってもたいていは欧米の、それも先進国と言われる国の話であって、中国も、韓国も、タイも、ラオスも、インドネシアも、フィリピンも、モンゴルも、パキスタンも、バングラディシュも、インドも、ネパールも、イランも、アフガニスタンも、アラブ首長国連邦も、サウジアラビアも、イラクも、エジプトも、チュニジアも、モロッコも、スーダンも、ケニアも、コンゴも、ナイジェリアも、セネガルも、南アフリカも、アンゴラも、メキシコも、キューバも、パナマも、コロンビアも、ブラジルも、エクアドルも、ペルーも、チリも、アルゼンチンも、ベネズエラも、「海外」に含まれることはない。

 日本は島国であるからして、文字通りにとらえれば、日本以外の国は全て「海外」になるはずなんだが、なぜだか、「海外では〜」と言うと、欧米の先進国を指してしまう。黒船以来の呪縛だろうか。

 しかも、欧米先進国といったって、いろいろなはずなんだけどな。

 

3. 国際金融資本黒幕論

 何か歴史的な事件が起きると、「国際金融資本(しばしばユダヤ系金融資本とも呼ばれる)が黒幕である」というストーリーが飛び出す。なぜか結構な人たちを惹きつけるようだ。

 国際金融資本なるものがなんらかの活動をしているのはまあ、そうなんだろうが、「黒幕」という決定的な働きをしているのか、あるいはできるのかは甚だ疑問である。

 世の中にはいろんな勢力がいて、それぞれの思惑でさまざまな活動をしている。影響力の強い勢力もあれば、そうでもない勢力もある。それらが互いに働きかけをしあって、ちょうどコックリさんを大勢でやるようにして動いているのが世の中だろう。

 それを、「国際金融資本が黒幕である」で片付けるのはいかにも単純化であり、乱暴である。もっと言うと、間抜けである。

 

 他にもいろいろとイタい単純化はあるんだが、今日はここまでにしておこう。

 あ、マルクスさんの「階級闘争」というのもえらい単純化ですね。昔は随分と惹きつけられた人もいたみたいだが、単純化したものを真に受けるとひどい目に合うといういい例だと思う。

ラテンアメリカ小説遍歴 その3

 昨年末以来、ラテンアメリカ小説を読み続けてきた。その報告、第三弾。

 

 

 キューバの作家、カブレラ・インファンテの、革命前のハバナを舞台にした小説。歓楽街を中心にさまざまな話が進む。

 この作品の魅力は、どう語ればいいのだろう。原作はキューバスペイン語の可能性を追求したものらしい。洒落や言葉遊びに満ちている。日本語で翻訳する際は当然、それらは訳せないから、日本語の洒落や言葉遊びに置き換えられている。とても生き生きとした文章なのだが、翻訳文がそうした生命力を持っているということは原文も生命力があり、それを翻訳者が苦労して日本語に移し替えたということなのだろう。訳した詩にも感じるのだが、翻訳した文章というのは原作者と翻訳者の共同作業というか、翻訳者の創造性もかなり織り込まれたものだと思う。

 続いて、ガルシア=マルケスの「迷宮の将軍」。

 

 

  19世紀にベネズエラ、コロンビア、エクアドルなどをスペイン支配から解放した英雄、シモン・ボリバルの最後の旅が描かれている。その晩年は、政治的失意と病気に悩まされ、思いのほか、寂しい。その寂しさこそがこの小説の眼目である。

 エピソードを塗りこめるようにして構築していくガルシア=マルケス節は抑えられ、リアリスティックな筆致だ。ガルシア=マルケスの書くシモン・ボリバルの最後に、栄光はない。

 

 

  ペルーのバルガス=リョサが、19世紀末のブラジルの宗教反乱「カヌードスの乱」を描いた作品。

 聖者コンセリェイロのもとにさまざまな人々が集まり、カヌードスに一種の宗教王国をつくる。ブラジル共和国は軍隊を派遣するが、何度も撃退される。その戦争の様がリアリスティックな筆致で書かれる。

 登場人物は多く、さまざまな人々のストーリーがからみあい、全体が形づくられる。後半の戦争の様は、戦争そのものが苦しいから、読んでいて苦しい。しかし、コンセリェイロを中心とした宗教王国で互いに支え合う人々の姿は美しく、そこに少しだけ救いがある。

 二段組で700ページ近くの大著だが、読んでいて飽きることはない。素晴らしい構築力と文章力だと思う。

 アルゼンチンの作家、ボルヘスの短編集を二冊。

 

 

 

 ボルヘスはまず、非常に主知的である。一種、数学的にすら思えるくらいだ。小説などでよく評される「人間が描けている」なんてことにはまるで興味がないのだろう。高い知性と幻想が合体して、独自の、おそらく誰も真似できない作品世界が生まれる(H.G.ウェルズに少しだけ似ているかもしれない)。

「伝奇集」の中の「円環の廃墟」「バベルの図書館」、「アレフ」の表題作だけでも読んでみてほしい。ボルヘスが天才だとわかるはずだ。

 最後に、再びガルシア=マルケスの「族長の秋」。

 

 

 読むのは二度目である。

 ラテンアメリカの架空の国の独裁者が主人公。

 驚いたことに、段落がひとつもない。いくつかの章があるが、章の中では全てがつながって書かれている。段落という整理した単位がなく、文から文へ、エピソードからエピソードへとつながっていく。エピソードを何重にも塗り込んで小説世界を作るガルシア=マルケスの真骨頂である。独裁者である「大統領」の救われない悩みと孤独と権力欲が、文と文のつながりのなかから見えていく。

 話はしばしば残酷で、グロテスクで、笑いがある。おそらく原文は散文詩的なのだろう。翻訳文も、そのリズムを再現しようと工夫されている。

 しかし、傑作かというとよくわからない。壮大な失敗作のようにも思えるし、怪作とも思えるし、ものすごいスケールと構想にこちらがついていけてないだけにも思える。

 

 ラテンアメリカの小説を、年末から何冊読んだだろう。とりあえず、ここまででいったん打ち止めにしようと思う。

 ラテンアメリカの小説を読みながら、ネットでその舞台となる土地を調べたりして、旅行をしているような気分にひたった。カリブ海を、アンデスを、メキシコシティを、アマゾンを、ブエノスアイレスを、マグダレーナ川を、ブラジルの荒野を、おれは旅した。楽しかった。

 またいずれ、気が向いたらラテンアメリカを小説で旅しようと思う。

梅雨とは何か

 東京は梅雨入りして、雨が降ったり、もやっと曇ったりする日が続いている。

 梅雨といえば雨、雨といえば梅雨という印象だが、データではどうだろう。気象庁の東京のグラフを見てみた(下記)。

 オレンジ色は昨年(2021年)、薄い青は平年値(年平均)である。

 

 

 昨年は7月、8月に突出して雨が降っているが、台風が続いたからだろう。

 年平均の降水量(薄い青)を見ると、梅雨の6月、7月の降水量は9月、10月より少ない。秋の長雨とも言うけれど、梅雨のほうが降っている印象があったので、意外である。6月、7月は確かに雨が多めだけれども、4月、5月や8月と比べて突出して多いというほどでもない。

 どういうことだろうか。

 梅雨というのは雨が降ったりやんだり。ただ晴れ間が少ないので、ずっと雨に降られている印象があるのかもしれない。梅雨の雨は強くなく、しとしとと地味に落ちる感じなので、降水量(の少なさ)の割にはたくさん降っているように思うのだろう。

 ちなみに、五月雨、という言葉があるが、あれは旧暦の五月のことだから、実は梅雨のことなんだそうだ。五月晴れは新暦の五月の気持ちいい晴天のことで、このあたり、新暦・旧暦が入り乱れて、少々ややこしい。

街の陰と陽

 先週の日曜日に武蔵小金井に行った。

 待ち合わせまで時間があったので、あたりをぶらついたら、南口に大型のショッピングモールがいくつも立ち並んでいて驚いた。いわゆる駅前再開発というやつである。

 おれは三十年ほど前に半年ほど武蔵小金井で働いたことがある。もはや記憶も曖昧だが、当時の南口にはビルもあんまりなく、普通の商店や民家が並んでいたと思う。随分な様変わりである。

 ショッピングモールは小綺麗で、何の陰りもなかった。しかし何か足りないような、落ち着かないような感じがした。

 おれは、街には陰の要素と陽の要素が必要なんじゃないかと思っている。

 陽は明るい、新しい、華やかなもの。新しいショッピングモールが代表だ。

 陰の代表は縄のれんの下がったような古い居酒屋。あるいは昔ながらの町中華。新しい、きれい、といった要素はまるでないけれども、いると落ち着く。

 陰と陽の両方があって、街はいい感じになるんじゃないかと思う。

 たとえば、幕張やお台場はほとんど陽しかない街で、つまらない。横浜は割とバランスがとれいていて、みなとみらいあたりの陽に対して、馬車道あたりの陰がある。横浜が街として魅力的なは陰と陽が合体しているところにあると思う。

 役所は再開発というと、陽のものを作りたがる。それがよいもの、よい街という固定概念があるのだろうか。それとも、役所自体が本質的に陰なものだから、光を求めて陽をつくりたがるのだろうか。

 ショッピングセンターも時間がたてば古びていく。だんだんと陰のほうに向かっていくのだが、それで味わいが出るかというと、少なくともおれは味わいのあるショッピングセンターというものに出会ったことがない。残るのは物悲しさだけだ。

とりあえず食ってみたヤツ

 朝、パスタにバジルソースをかけたものを食べて、ふと「バジルをこうやってソースにできると気づいたヤツが昔いたんだなー」と思った。

 まあ、料理方法というのはどれもそうで、最初にやってみたヤツというのがいたわけである。バジルソースについて書いたけれども、あれなんかは割とシンプルで、インド料理のカレーなんてスパイス(何かの実だの種だの葉っぱだの)を相当な実験精神の歴史のなかで組み合わせてきて、今ある姿になったのだろう。

 この実は食える食えない、この葉っぱは食える食えない、食えないと思っていたけどこうやったら食えた、美味くなった、なんていう発見は人間の飽くことなき追求の賜物である。そのおかげで我々は今、ナマコを酢の物にして食ったり、ベニテングダケをよけたり、フカのヒレをスープにしたりできている。

 もっとも、何かを食える食えないということの発見は、必ずしも積極的精神で行われたものではないのかもしれない。人間には一方で飢えの歴史がある。とにかく腹が減って、腹が減って、飢え死にを逃れるためにとりあえず口にできるものは口にした、というなかから、食えるもの食えないものの発見があったのではないか。

 中国の歴史ではよく大変な飢饉で木の皮を食った、根っこを食ったという話が出てくるし、先日読んだバルガス=ジョサの「世界終末戦争」でも19世紀末のブラジルの飢饉について同じような話があった。木の皮の料理というのはあんまり残っていないから、相当な無理があったのだろう。

 飢え死にの歴史の果てに、現在の食文化が成り立っていると考えると、申し訳ないような気もちょっとする。

日本人野球選手のニュース

 先週書いたように、最近は野球の試合を見ていない。

 それでも日本人野球選手がMLBでこうだった、というニュースを見かけはする。今なら大谷翔平のニュースが多い。

 あれがどうもモヤモヤとする。大谷が何回を投げて失点いくつだった、三振をいくつ奪った、打者として何安打だった、ホームランを打った、盗塁した……。素晴らしいことではあるのだけれども、「あれ? 野球ってチームスポーツじゃなかったっけ?」とまあ、そんなふうにも思うのだ。これがモヤモヤのもとである。

 おれがそういうモヤモヤを覚え出したのは、イチローMLBで活躍しだした頃からだ。イチローが何安打打った、と、それはまあ、ニュースバリューはあるのだろうけど、野球というチームスポーツの本質がどこかに行ってしまい、個人競技のごとくに見えてくる。

 これはサッカーでも同じで、ヨーロッパのクラブチームに属する日本人選手が点をとった、アシストした、というのは「事実」ではある。がしかし、サッカーって11人がボールを奪って、つないで得点を争うスポーツだったよな、確か、などとも思うのだ。

 村出身の力士が本場所で勝った負けた、という話題の立て方とあんまり変わらんよな、野球選手やサッカー選手の海外での活躍のニュースは。

 おれがひねくれてるのか。

試合の長さ

 ここ何年か、ほとんど野球の試合を見ていない。高校野球を何試合か見たかな。そのくらいである。

 ヨーロッパのサッカーが面白くて、そっちが中心になったということもあるが、もうひとつには試合の長さがある。

 日本のプロ野球だと2時間半くらいが普通だろう。3時間を超えるケースだってよくある。どうもおれの集中力がもたない。早くいうと、途中で飽きたり、ダレたりしてしまうのだ。

 まあ、もともと野球の試合というのはダラダラ見るものなのかもしれないが、今の自分には合わない感じがしている(昔、野球を見ていた頃はよく付き合ってたなあ、と思う)。

 アメリカンフットボールにも興味があるのだが、これまた3時間くらい平気で続くので、見るのに躊躇してしまう。野球、アメフト、といったアメリカを代表するスポーツはどうしてこう試合時間が長いのだろう。午後まるまる試合を楽しむ、という文化なのかな。バスケットボールはそうでもないか。あれは時間感覚が締まっていてよい。

 試合時間という点でおれがちょうどいいと思うのは、ボクシングだ。世界タイトルマッチでも3分12ラウンド。ラウンドごとに休憩が入るので、全体でも50分を切る。展開が早くてよい。1ラウンド3分というのも見ていて集中でき、「あ、あと1分か」などとすぐに思うので、よい長さだと思う。

 野球の試合、試合の長さを考えると、9回ではなくて6回か7回くらいにすればいいと思うのだが、今の野球のシステムを全て崩す(先発〜中継ぎ〜抑えの流れとか)ことになるから、さすがにやらないだろうなあ。