シェア・ハズバンド

 シェア・ハウスとか、シェア・オフィスとか、シェア・サイクルとか、シェアのつくいろんなサービスが普及してきている。

 それでまあ、ふと思ったのだが、一夫多妻制。あれをシェア・ハズバンドと捉えたらどう見えるか。夫をひとりの妻が個人所有するのではなくて、大勢の妻でシェアしている状態というわけだ。

 現代の日本では一夫多妻は、法律の手前もあって、また文明開化以来の西欧的な価値観の雪崩れ込みもあって、あまり指示されていない。実態として一夫多妻になっている家庭も世の中にはあるのかもしれないが、あまり表には出てこないし、出てきても批判的な意見のほうが多いだろう。天皇家の後継問題だって本当は一夫多妻制が大きく関わるはずなのだが、それを論じることすら難しいのが、苦しいところだ(別に一夫多妻制を押しているわけではない)。

 まあ、おおむね今の日本では一夫多妻には否定的な人が多いだろうけど、ひとりの夫を複数の妻でシェアすると考えたらどうだろう。新しめのことは何となく結構だ、素晴らしいとしがちだから、案外、シェア・ハズバンドなら通ったりして。通らんか。

 ついでにHaaS、ハズバンド・アズ・ア・サービスで夫が妻へのサービスにこれ努める。というか、サービスとしての夫。これなら妻のほうからしても結構な話だったりして。

 一夫多妻制というと夫の側が複数の妻を持っていばっているようであるけれども、実際にはそれぞれの妻への気遣いとか、公平さとか、もめごとの処理とか、気苦労も多いと聞いたことがある。まあ、サービスを利用してもらう側はいろいろと苦労をしますね。

志ん生の駄洒落

 おれは今週夏休みなのだが、天気の悪い日が続いてほとんど家でぽやぽやしている。火曜日に台風一過の晴れた日があって、ちょっと風は強いが、自転車で西へと向かった。

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 府中の東京競馬場から府中の森公園、多摩霊園、武蔵野の森公園とまわった。行って帰って5時間くらいかかる。37度の炎天下で、自転車で走るのは馬鹿である。途中でへばったが、「2021年府中の旅だ! そうFacebookに書くのだ!」となぜかそれだけを心の支えにしてペダルを漕いだ。帰りの玉川通りで限界に達して、コンビニで倒れ込みそうになった。やはり、馬鹿である。

 帰ってからFacebookに写真とともに「2021年府中の旅。」と書いたら、なかなかの好反応であった。やはり、人間、捨て身のやつにはかなわないのだ。

 駄洒落というのは好き嫌いの激しい笑いの手法であって、隙あらば駄洒落を挟もうとする人もいれば、蛇蝎の如く嫌っている人もいる。おれもどちらかというと後者なのだが、「2021年府中の旅。」だけは自分で妙に気に入った。

 駄洒落で笑わせるには、というか、おれが笑いたくなるには(自己中心的で相済まぬ)古今亭志ん生くらいのニンとテクニックがあらまほしい。たとえば、志ん生に「タコが寝ていて、タコね山」という駄洒落があって、あまりにくだらなくて笑ってしまう。

 このすっとぼけた、しかし、おそらくは計算のある笑いは何だろう。志ん生の川柳を思い出す。

ビフテキで酒を呑むのは忙しい

借りのある人が湯ぶねの中にいる

恵比須さま鯛を逃して夜にげをし

 どれも実にすっとぼけている。「タコが寝ていて、タコね山」と同じ抜けた感じでこの一貫性は何だろうか。それが志ん生のニンだよ、と言えばそれまでなんだが、「境地」という言葉が浮かぶ。いや、別に崇高なものではなくて、もっとくだらないことをトボトボと考え続けた人の境地なんだが、いやもう、素敵だ。

SNSの汚物

 東京オリンピックは今日で終わりだが(だったかな)、結局、全く見なかった。オリンピックの競技以外の部分、オリンピック精神だの世界がひとつになるだのその官僚主義だの建前だのナントカの祭典だのがイヤなせいもある。また、おれは東京オリンピックは中止すべきだと思っていたから、手のひらを返して楽しむのが申し訳ないせいもあった。

 しかしまあ、これほど直前までグダグダだったオリンピックというのもめずらしいのではないか。ザハの新国立競技場案のひっくり返りに始まって、サノケンのマークパクリ疑惑、「簡素なオリンピック」の手のひら返し、森さんの女性蔑視発言問題、直前になって小山田圭吾の過去の差別自慢インタビュー、元ラーメンズの誰だっけ、の過去のホロコーストネタ、エトセトラエトセトラ。

 それらにはネットでの暴露や揶揄、攻撃が大きく作用したようだ。ネットの暴風の威力を思い知らせる大会ではあったと思う。見てないけど。

 ネットの、特にSNSで作り出される空気というか、暴風域というのは一体まあ、なんなのかと思う。ひとつひとつは個人の書き込みで、たいがいは「正義」の側についてやっつける。それらが束になると、大変な破壊力を持つ。束になって攻撃する、個人が攻撃に晒される、という意味では、私刑(リンチ)と同じ構図である。というか、私刑そのものである。私刑のひどさ、残酷さというのは、攻撃される側が過ちを犯したかどうか、それが悪質だったかとは関係ない。見ていて、イヤなものである。

 前にも書いたが、攻撃する側は「正義」の主張を行いながら、実はその裏にはねたみ、やっかみ、やつあたりがある場合が多いんじゃないかと思う。正義を装ってということではなくて、正義が五割にねたみ、やっかみ、やつあたりが五割とか、三割七割とかいろいろな比率がある。

 SNSなどで誰かを否定したり攻撃したりする書き込みを見ると、イヤーな心持ちになることがよくある。まるでその人の出した汚物を見せられているようなふうで、げんなりする。おそらくたいていは、攻撃の書き込みをするその瞬間は正しいと思っていることがあるだろうし、書いてすっきりもするのだろうが、まあ、はたから見れば醜いし、みっともない。

 だれもが簡単に憂さ晴らしを兼ねて私刑に参加して汚物を出してスッキリして逃げられるとは、なかなかに恐ろしい状況である。

 などと書きながら、おれも同じようなことをすることがある。この文章だっておれのうさばらし三割だ。オリンピックを叩いて、イヒヒヒ、と喜んだ。いや、面目ない。

天皇陛下のお買い物

 生活の中でのデジタル化が進んで何が多くなったかというと、個人情報の入力である。ショッピングサイトもそうだし、SNSもそうだし、そのほかなんやかやとサービスを利用するたびにあれやこれやと書かされる。面倒くさいなー、またかよー、などと思いつつ、しょうがないので毎回同じことを入力する。便利の裏には不便があるものである。

 それでまあ、以前にも書いた覚えがあるが、天皇陛下はデジタルサービスを利用するとき、どうなさるのであろうか。個人情報をどう入力されるのか。

 たとえば、名前の欄。たいがいは「姓」「名」「姓(フリガナ)」「名(フリガナ)」などとある。ご案内の通り、天皇には姓がない。仕方がないので姓のほうを空欄にして、名のほうに「徳仁」「ナルヒト」などと書くと、当然ながら「※ 入力必須」などとサイト側からお叱りを受ける。

 住所はまあ、「東京都千代田区千代田1-1-1」でよいが、ついでに「皇居」と書くのも正確を期してよろしい。

 問題は職業欄である。やはり「職業:天皇」と書くのであろうか。それとも、「職業:公務員」であろうか。確かに、いろいろな公務に勤めていらっしゃるが、公務員はちょっと違う気がする。と言って、「職業:神官」というのも、まあ半分当たってはいるが、ぴったりではない。意外と「職業:複合サービス業」なのかもしれない。

 それでもって、何かサービスの利用に不具合があって、コールセンターに問い合わせをしたら、こんなふうになるんじゃないか。

「もしもし」

「はい、〇〇サービス、コールセンターです」

「うまくサイトが使えないので、おうかがいしたいのですが」

「はい、まずはお客様のお名前からお願いいたします」

「ナルヒトです」

「ナルヒト様。上のお名前はなんでしょうか」

「あの、ないのです」

「ない・・・それではご住所は」

「東京都千代田区千代田1-1-1 皇居です」

 このあたりでコールセンターのオペレーターも異常を感じるであろう。ひそかに上司を呼ぶボタンを押すかもしれない。

「ご職業は?」

天皇です」

「(上司に代わる)あのですねー、もしいたずら電話でしたら困るのですよ。ちなみに、記録のためにこの電話は録音させていただいておりますが」

「困りました。わたくし、天皇のナルヒトなのですけれども、いけませんでしょうか」

 などと、不便極まりない。

 まあ、実際には侍従なり、宮内庁の担当なりがご用を代行するのだろうけれども、この時代に自分では一切デジタルサービスに加入できないとは、とてもご不自由な御身の上だと思うのである。

ねたみ、やっかみ、やつあたり

 SNSやこのブログなどで、妙に攻撃的になるときがある。誰かをくさしたり、いやだいやだ、と昔の絵本みたいなことを書いたりと、いや、面目ない。後で自分で読み返してイヤーな気分になる。

 それでまあ、自己分析してみるに、もちろん、相手を攻撃したい気持ちはあるのだが、その裏では自分の不機嫌によるところも結構あって、たまたまそういうときに気に食わない相手がいるとやってまえ、となるらしい。ねたみ、やっかみ、やつあたりが実は動機の半分くらいしめていたりして、いや、ますます面目ない。

 人がSNSなどで誰かを派手に叩くのも、やはり、ねたみ、やっかみ、やつあたりの部分が大きいのではないか。まあ、おれもダメだが、お前もダメだ的な判断で申し訳ないのだが。

 インターネットの書き込みというのは簡単にマウントポジションをとってタコ殴りできる。あるいは、ヒット&アウェイというか、そもそも自分が誰かも明かさずに後ろから金棒でぶん殴るようなもので、自分を棚にあげて申し訳ないのだが、卑怯ではある。

 しかも、「コイツはやっつけていいやつだ」「正義はこちら側にある」となると、勇気百倍、いっせいに寄ってたかってやっつける。リンチである。相手が悪いとしても、リンチする側が正しいわけではない。

 ねたみ、やっかみ、やつあたりから来るマウント、タコ殴り、背後からの金棒が次々と繰り出すわけで、みっともない。いや、申し訳ない。

想像としての歴史、学問としての歴史

 相変わらずいきなりの話題で恐縮だが、歴史というのは汲めども尽きぬ興味の泉であって、世の中には歴史好きの人が大勢いる。おれも好きであって、読む本のおそらく三分の一くらいは歴史関係である。どこの地域とかどこの時代ということもなくて、その時々の興味で行き当たりばったり(行きあたってバッタリ倒れるのだ)に読んでいる。

 日本の歴史好きの人のうち、かなり多くが、司馬遼太郎の影響を受けているんじゃないかと思う。坂本龍馬ファンの多くが、司馬遼太郎の小説から入っているようだし、織田信長明智光秀豊臣秀吉徳川家康なんかの知識やイメージも司馬遼太郎から仕入れた人が多い。学問的にはともかく、驚嘆すべきことに(へへ)日本での一種の「歴史の常識」の多くの部分を司馬遼太郎が占めている。

 おれは歴史を追いかける姿勢というのは大まかに「想像としての歴史」と「学問としての歴史」に分けられるんじゃないかと考えている。「想像としての歴史」と「学問としての歴史」はさらにこんなふうに細分化される。

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 ミステリー的歴史というのは「あの事件の真相はこういうことだった」などと推理・想像・妄想を働かせるものであって、陰謀論なんかはここに含まれる。陰謀論というのは困ったもので、だいたいにおいて表に出てくるものではないから、どうにでも想像できるし、状況証拠とか利害関係からヒントを得て、わんさかとつくり出せる。

 講談的歴史というのは伝説やオモシロ話をもとに血湧き肉躍るストーリーを紡ぎ出すもので、司馬遼太郎はここに属するし、大河ドラマもたいがいこれだろう。歴史ロマンというやつだ。伝説というのは集団のアイデンティティーを形づくるうえで大きな働きをするから、非常に喧伝されたりもする。

 ミステリー的歴史と講談的歴史が「想像としての歴史」の代表格だと思う。

 一方の「学問としての歴史」は一応、何らかの学問的手続きを踏んで、なるべく齟齬を減らそうという約束事に縛られている。だから、想像としての歴史とは面白さのタイプが少し異なってくる。

 大きくは「理論的歴史」と「実証的歴史」に分けられると思う。実際には研究者は両者の間を行き来するのだが。

 理論的歴史というのは事実(と思われるもの)から理論を抽出するものもあるし、逆に理論をもとに事実を解釈するというものもある。後者の極端な例がマルクス主義的なんたらかんたらで、物事を一面的に見るばかりだったり、事実を無理くり当てはめたりすることが多くて、おれはあんまり好きではない。

 実証的歴史には人物・組織の歴史、統計的歴史、物証的歴史がある。統計的歴史というのはたとえば人口動態や土地利用の変化などを扱うもので、歴史人口学なんかが代表的だ。その時代、その時代の人々の暮らしぶりが垣間見えて、なかなかに面白い。

 物証的歴史は考古学が代表的で、モノから歴史を見る。

「想像としての歴史」と「学問としての歴史」には呼応するところもある。たとえば、ミステリー的歴史(想像としての歴史)と理論的歴史(学問としての歴史)は頭の中の作業が多いところが近い。また、ミステリー的歴史・講談的歴史と、人物・組織の歴史(学問としての歴史)はしばしば混同されてしまい、その結果、伝説やら事実やら、想像やら実証やらがぐちゃぐちゃ、ぐだぐだになっているのが日本の「歴史」愛好者の実態だと思う。

 まあ、その混沌状態が歴史方面の活気を産んでいるのだろうが、講談やミステリーと事実を一緒くたにしてしまうのは、ちょっとみっともない。講談は講談として楽しめばよいと思うのよね。

 

イカすぜ! キエッリーニ

 ここのところ、サッカーのEURO2020(昨年開催の予定だったが、コロナで1年延びた)を見ている。今日の深夜には決勝で、イングランド対イタリアという素晴らしいカードである。

 イタリアは団結力が非常に高く、見ていてとても楽しい。その中でも、特におれが好きなのはキャプテンのキエッリーニだ。

 御年36歳、大ベテランのディフェンダーである。見ていて陽気で、いつも何かを楽しんでいる。中継では言葉まではわからないが、試合中にトラブルになりそうなときも冗談でその場を和ませているようだ。

 スペイン戦でPK前に相手キャプテンをからかう動画があった。

youtu.be

 おれは勝手にキエッリーニを「イタリアの酒屋のおっさん」と呼んでいる。三河屋と書いた前掛けがこれほど似合いそうなサッカー選手もちょっといないんではないか。

 一方で、チームのピンチのときには文字通り体を張ってゴール前を守る。ベルギー戦でも、スペイン戦でも、猛烈なスライディングでボールをゴール前から弾き出したシーンがあった。

youtu.be カッコよすぎるぜ、キエッリーニイカすぜ、キエッリーニ

 イタリアはこんなキャプテンを持って、幸せなチームだなあ、と思う。