サムライ・ホテル

 サムライとか武士道についておれは真面目に考えたことがなく、その手の話はたいがい何かの勘違いだろうと思っている。

 YouTubeを見ていたら、ジョン・ベルーシが1970年代にサタデイ・ナイト・ライブ(アメリカの人気バラエティショー)でサムライを演じたコントに出くわして、大笑いした。

youtu.be

 ジョン・ベルーシのサムライ物はいくつかあるが、たいがいはキチガイ路線である。

 着物の中から手を出して顎をポリポリ掻く仕草や、セリフまわしは明らかに「椿三十郎」の三船敏郎のパロディである。さすが世界の三船。国際的に通用するサムライ像、浪人像を作り上げてしまった。

 ハナモゲラ日本語の発音や、デタラメに抜刀して奇声を発するところも素晴らしい。

 おれは現代のサムライ像や武士道というのは、おそらく講談〜大衆小説〜映画〜劇画やテレビ時代劇という流れのなかで生まれてきたファンタジーだろうと考えている。「指輪物語」をもとに、昔はオークやエルフや魔法使いがいたのだと信じるのはいささか滑稽だ。もしかするとサムライにも指輪物語の世界観の原型になった何かはあるのかもしれないが、それはあまりにおぼろげで、多様で、つかみどころがない。

 こういうコントを見ると馬鹿にされた気になって腹を立てる人もいるのかもしれないが、おれは大好きだ。これこそサムライだ!

2つに分ける

 理系女子がどうの、という話が時々出ることがあって、まあ、井戸端会議的にわあわあ言っている間はたわいもないが、実際の対応だの扱いだのに響いてくると、なかなか罪深い。

 そもそも理系、文系という分け方があんまり役に立たないというか、かえって害が多いように思う。「これは理系向けの仕事である」「これは文系向けの仕事である」などと分けているうちに、いつのまにかその仕事の内容にまで関わってきてしまう。変に仕事に作用してしまう。

 同じ伝で、右翼、左翼という分け方もずいぶん乱暴だと思う。いろいろな主義主張、考え方、行動をたったふたつに分けてしまって、「左翼というのは〜」「右翼は〜」などと単純化してしまう。

 あのさー、と思うのである。血液型性格判断(あれはデタラメらしいが)でさえ4つ、星座占いでさえ12あるのに、主義主張がたった2つなのだ。

 この手の2つに分けてしまう草分けはおそらく男と女だろう。若者と年寄りというのもある。そこにはオカマと30代の出る幕がない。あるいは右脳と左脳というのもありますね。あれもだいぶ曲解されているらしい。

 2つに分けて考えがちなのは、おそらくそのほうがラクだからなんだろう。しかし、ラクして出した答えは怠け者の答えであって、その程度の効力しかない。

 そして、この世で最も害をなす分け方のひとつは「我々とあいつら」である。

幕末の志士と現代のムスリム戦士

 昨晩、ぼんやりとNHK大河ドラマについて考えていて、ムスリム戦士に思い至った。これだけ書くと、なんだかわけがわからないが、こういうことだ。

 大河ドラマでは何年かに一度、幕末物が制作される。たいていは幕末に活躍した人たちを好意的に描く。その中にはしばしば脱藩した「志士」と呼ばれる人たちがいて、現代にまで続く社会の礎になったとして、立派な人たちである、という捉え方がされる。

 志士の「志」というのはおそらくだが、何かこう、世の中はこのままではいかん、という信念、あるいは焦り、熱であって、その熱に浮かされて、自分が帰属する社会、すなわち藩から飛び出したのだろう。

 これ、欧米からアルカイダ系のグループやISなどに参加した欧米のムスリムの若者と同じじゃないか、と思い至ったのだ。

 日本では、彼らのことは一般にはあまり好意的に捉えられていない。テロや戦闘のイメージが大きいせいで、怖いという印象が先に立つ。欧米には住んだことがないのでニュアンスはわからないけれども、おそらく欧米の国々でも怖い、得体の知れない、あるいは無茶なやつらという捉え方は多いだろうと想像する。

 おそらくそうした見方は、幕末の普通の人々の、脱藩者に対するものと似ているんじゃないかと思うのだ。実際、京の町では随分と殺し合いがあり、それはテロそのものだったろう。為政者の中には彼らを憎悪する者、あるいはうまく利用しようとする者もいただろう。現代と変わらない。

 正義や信念は人それぞれによって違う。

 百年後の司馬遼太郎みたいな作家が現代のムスリム戦士、あるいはその一党を書いたらどうなるだろう。「ビン・ラディンがゆく」なんていう快活な読み物になったりして。

海外

 ご案内の通り、我が国は嘉永六年にペリーの黒船来航に腰を抜かし、わーわーと大騒ぎのうちにわずか十年余りで御一新を迎え、西欧派遣団がヨーロッパで再び腰を抜かして、ざんぎり頭を叩きながら文明開化の世となり、御雇外国人を迎え入れたり、決死の覚悟でヨーロッパに学ぶ留学生を送ったりしつつ坂の上の雲を目指してみたら実は坂の上の暗雲だったりして、八紘一宇などと夜郎自大なことを言ってたら太平洋戦争に敗れ、産業復興と技術導入(真似とも言う)を図ってOh! モーレツに働いてみたら存外にうまく行き、世界第二位のGDPを達成して「我が国はものづくりが得意なのだ。エッヘン」などと威張っているうちに、あっという間に他の国々も伸びてきて、更年期の中年の不定愁訴みたいな状態に陥り、今に至っている。

 おれはどうも気になるんだが、よく「海外では〜」という言い回しが使われる。島国ニッポンであるからして、文字通りに捉えれば「海外」とは日本以外のすべての国を指すはずなんだが、たいがいは中国もインドも含まない。インドネシアパキスタンもブラジルもナイジェリアも含まない。わしらが「海外では」というときには言外のうちに欧米の先進国を意味している。

 おれの霊感では、どうやら「海外」に含める国は、なんとなくのイメージで「自分たちより進んでいるか、少なくとも同等で、見習うべきところの多い国々」であるようだ。ずばっと言うと、それが欧米の先進国だ。あるいは、黒船以来の呪縛かもしれない。

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 中国からは、聖徳太子様の昔より非常に多くのことを学んできた。というか、ありていに言うと、中国の文化表現や技術はいつも我が国のコピー元であった。しかし、いつの頃からか、見下すような視線になり、しこうして「海外」には含めなくなった。インドからは中国経由でヒンドゥの神々をいろいろいただいたり(大日如来も弁天様も帝釈様もヒンドゥの神様である)、仏教の経典の多くがインド発のものなのだが、「♪インド人のさーるまーた、ねっとねっとするよー」の歌に代表されるように(しないか)、少しばかり見下しているところがある(一方で、畏怖もある)。

 今や、中国もインドも、日本より先を行っている部分が多いのだが、「海外では〜」には含まない。

 安易に欧米だけを指して「海外では〜」と語る人が、同じ口で「グローバル」などと言っているのを聞くと、なーにを言うとるのだこのバカタレが、と思うのだ。

天国の年齢

 夢の中で自分は何歳なのか。

 おれは今、五十三歳だが、夢の中で自分の年齢を意識することはない。

 生まれ育った田舎を自転車で走り回ったり、いささか恥ずかしいが、明日テストなのになーんもやってない、ヤバいわ、と焦る夢を夢をよく見る。どうやらそのときは高校生であるらしい。

 大学生の頃の夢はあまり見ず、社会人になってからのものはほとんどない。圧倒的に現在(かどうか曖昧だが)か、高校生時分の夢が多い。高校生の頃というのは物事の感じ方が新鮮で、それが記憶に残っているのだろうか。

 年齢といえば、あの世に行ったときの年齢というのも気になる。

 おれの祖母は十何年か前に九十過ぎで亡くなった。太平洋戦争で夫(つまり、おれの祖父)を亡くし、それからは毎日仏壇に経をあげる生活をしていた。

 祖父の亡くなった年齢は知らないが、おそらく三十代である。

 天国での年齢はいくつなのだろうか。もし亡くなったときの年齢だとすると、天国で三十代の祖父は九十過ぎの祖母を迎えることになる。「わたしです! ○○です!」と九十過ぎの祖母にすがりつかれるのだ。三十代の祖父はずいぶん困惑すると思うのだが。

日本人論と血液型性格判断

 今回のコロナ騒ぎのように世情がわさわさすると、やたらと日本論や日本人論が語られるようになる。

 おれは、日本人論の中には傾聴すべきものもあるけれど、たいがいはいい加減なものだと思っている。他の社会の人々ときちんと比べているとは限らないし(せいぜいのところ、欧米の一部の社会(なぜか「向こう」と称される)くらいだ)、当てずっぽうに思いついたことを語っているだけのことが多い。

たとえば、コロナ騒ぎの上陸初期にトイレットペーパーの買い占めが起きたときには、「日本人はこういうときになると……」などと語られたが、少し経ってみると、他の国でもトイレットペーパーの買い占め騒ぎが起きていて、日本人に限った話ではないということがわかった。

 多くの日本人論は、血液型性格判断に似ている。おれもガキの頃から、「A型の人は〜」「B型の人は〜」と刷り込まれていて、なんとなく信じていた。しかしまあ、あれは性格についての統計をとってみると、全然関係ないらしい。

 それでも「当たっている気がする」と感じてしまうところが、血液型性格判断のおそろしいというか、面白いところで、要するに、人間の性格の捉え方なんていうのは曖昧なものだから、「言われてみると、そんな気がする」と思い当たる節に思い当たってしまうのだろう。

 たいがいの日本人論も同じで、「言われてみると、そんな気がする」で流布してしまうのだと思う。

 日本人に、他の社会の人々と比べて、なんらかの特徴的な傾向はあるのだろうけれども、その理由をあれこれ感じたまま、思ったままに語るのは、居酒屋政治論と同じく、一種の楽しみにはなるだろうけど、いい加減なものだと思う。

 ちなみに、おれは血液型が新型である。

卵の不思議

 おれは昔から進化ということに非常な不思議の念を抱いている。もっとも、それで進化論のほうを勉強するかというとそういうわけでもなく、だから学問方面が深まることはない。ただ不思議だ、不思議だと思っているだけである。

 キリスト教徒の中には進化ということを認めず、「あれは神が最初の七日間で創り上げたのだ」と唱える人もいる(キリスト教徒の全員ではない)。「では、化石なんかはどう考えるのだ。動物の形は進化しているではないか」と問うと、「いや、あれは神が最初の七日間で化石としてお創りになったのだ」とまあ、そう言われると否定のしようもない。実に素敵な答えを考えつくものである。

 おれが常々不思議だなー、なんでこんな巧妙なものができあがったのかなーと思うもののひとつに卵がある。鳥の卵である。

 あの硬い卵の殻でくるむという工夫というか、仕掛けはどういうふうに進化したのだろうか。おれの無学のせいもあるかもしれないが、やこやこ、半固形の殻というのはなくて、いきなり硬い卵の殻ができあがったように見える。

 魚類の卵はご案内の通り、ほぼモロに中身である(かたまってイクラやスジコのようになっていることはあるが)。両生類は、といってもおれはカエルくらいしか知らないが、寒天のようなやわらかい物質で多くの卵をくるんでいる。ところが、爬虫類になるといきなり硬い殻が登場する。両生類から爬虫類が進化する過程で何が起きたのだろうか。殻になる前のやわらかい物質の段階もあったのだろうか(あったとしても、硬い殻の卵の種族が登場したら、その種族に駆逐されてしまったのかもしれないが)。

 鶏の卵というのも不思議で、白色レグホンはほぼ毎日、卵を産むらしい。麦だのなんだのの飼料をついばんではそれを体の中でタンパク質の豊富な卵に変換する。人間にとって実によくできているというか、人間の品種改良にかける情熱というのはただならないものがある。

 白色レグホンの場合は人間の掛け合わせによって進化をスピードアップさせたわけだが、その大元の、自然界の進化は実にもって不思議だ。何しろ(神様が七日間で創ったのでなければ)、地球を放っておいたら、いろんな形態の生物がわんさと生まれて、そして今、おれの目の前に麦から変換された硬い殻の卵があるのだ。

 必要は進化の卵なのだろうか。