ミスターとムッシュー

 なぜだかわからないが、英語とフランス語の語感の違いについて考え始めた。正確に言うと、カタカナ英語とカタカナ・フランス語の語感の違いである。

 英語でそれなりの社会的地位にある男性を「ミスター」と呼ぶ。フランス語なら「ムッシュー」だ。Google翻訳で英語の「Mister」をフランス語に直すと「Monsieur」と出てくるから、まあ、間違いないだろう。

 日本において、カタカナ英語で「ミスター」と言うと長嶋茂雄のことである。「ミスター・ジャイアンツ」「ミスター・プロ野球」から来ている。しからばこれをGoogleカタカナ翻訳で(そんなものないが)フランス語に変換すると、ややや。「ムッシュー・プロ野球」となってしまう。違和感ありありである。なぜかパイプをくわえているみたいになってしまう。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5e/Weekly_Sh%C5%8Dnen_Sunday_first_issue.jpg

ムッシュー・プロ野球

 

 逆に日本で「ムッシュー」と言うとかまやつひろしのことだが、これまたGoogleカタカナ翻訳で(そんなものやっぱりないが)「ムッシューかまやつ」を英語に変換すると、「ミスターかまやつ」となってしまう。長嶋茂雄の影が忍び寄ってくる。

 もっとも、フランス語の「Monsieur」には、英語の「Mister」と「Sir」の両方の意味があるらしい。男性の敬称について、英語圏とフランス語圏では社会文化的に少しく違いがあるのだろう。

 映画などのアメリカ軍の新兵訓練ではよく、教官に対して「Yes, Sir, yes!」「No, Sir, no!」と集団で大声を出す。

「お前らの股間にはちゃんとキンタマがついておるのか!」

「イエス、サー、イエス!」

「早くおうちに帰って、ママのおっぱいを吸いたいのだろう!」

「ノー、サー、ノー!」

 てな具合である。

 あれ、フランス軍だとどうなるのだろうか。

「ウイ、ムッシュー、ウイ!」

「ノン、ムッシュー、ノン!」

 なんだか軍隊というより料理店のウエイターみたいだが、まあ、これはミーが頭の中に勝手に積み重ねてきたおフランスのイメージのせいザンス。

再生ボタン

 相変わらず物の役に立たないことばかり考えている。

 今朝、トイレに座りながら、「プレーヤーの再生ボタンの記号はなぜ左から右に向かう三角形なのだろうか?」と考えた。自分の頭の中の回線がどのようにつながってこういう疑問が生まれるのか、自分でもわからない。

 DVDプレーヤーや動画の再生ボタンは横向きの三角形が左(底辺)から右(頂点)に向かう形をしている。なぜ右から左ではないのだろうか。早送り⏩は三角形がふたつつながって、左から右に向かっている。巻き戻し⏪は逆に右から左である。

 順方向は左から右。舞台なら下手(しもて)から上手(かみて)という流れである。右から左でもいいはずなのに、なぜそうなったか。

 10秒ほど虚空を見つめているうちに答えが出てきた。「欧文の書き方が左から右に向かうからだ」。いや、立証はできないですけどね、物事の流れの意識が文章の書き方、読み方から生まれたんではないか。

 あのアイコンが誰の開発なのかは知らない。過去をさかのぼると、カセットテープのプレーヤーにはあれが付いていた。その前のオープンリールのプレーヤーもそうだったかもしれないが、これは今いち記憶にない。さらにさかのぼると、テープ物の元祖はなんだろう。映写機か。映写機にあの再生ボタンが付いているのかどうかも知らない。

 もし文章を書く方向に基づいて再生ボタンの方向が決まったのだとすると、もし昔、日本や中国がプレーヤーのアイコンを開発したらどうなっただろう。再生ボタンは上から下に向かう三角形になっていたのだろうか? あるいは、アラビアで開発したら、右から左になったのか?

 うーむ、我ながら、実に無駄な想像である。

 話は変わるが、今の若い人は⏪のアイコンをなぜ「巻き戻し」と呼ぶのか、わからないんだそうだ。カセットテープを知らないと、それはそうだろうなあ。

ビートの体幹

 おれは中学のときからもっぱら洋楽を聞くようになった。中学時代は洋楽のジャズ、フュージョン、高校時代はロック、大学からは雑食だが、R&Bやファンクをよく聞くようになった。日本の音楽はムード歌謡を除いてあまり聞かなかった。

 昔で言うところのニューミュージックやポップスも、折に触れて耳にする機会はあったが、積極的に聴く気にはならなかった。なんでかなー、と思うに、ビートの弱さがひとつあると思う。なかなか言葉ではうまく説明できないのだが、腰の座ったビートというのが日本の演奏にはあまりない。これは演奏者側のビート感覚のせいもあるが、そもそガシッと濃ゆいビートが聴く側にあまり好まれず、Jポップとやらのシャラシャラした軽いリズム感が受ける土地柄もあるのだと思う。

 先日、コロナ騒ぎの余波で、タワー・オブ・パワー(1970年代に活躍したアメリカのR&B〜ファンクバンド)の歴代のリードボーカルがそれぞれ自宅で唄って重ね録りした演奏を見た。これがもうごキゲンなのだ。

youtu.be

 こういう演奏を聴くと、演奏にも体幹の強さというのがあると思う。アメリカのヘビー級ボクサーの強さにも通じる。

 星野源の「うちで踊ろう Dancing On The Inside」への重ね録りが話題になっているし、いい活動だと思うけれども、演奏にタワー・オブ・パワー体幹の強さはない(そもそも目指していないのだろうし、それはそれで好きずきである)。シャラシャラしていて、文化というか、伝統というか、育ってきた環境が随分と違うのだろうなー、と思うのだ。

原始仏典

原始仏典 (ちくま学芸文庫)

原始仏典 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:中村 元
  • 発売日: 2011/03/09
  • メディア: 文庫

 

 仏教思想学の大家、中村元先生が原始仏教の経典について記した一冊。NHKのテレビやラジオで講義したものが元になっているそうで、語り口はとてもやわらかく、わかりやすい。

 原始仏典は比較的初期の仏教の経典で、釈迦の言葉やその直弟子たちの言葉やその少し後と思われる詩句が記されている。もっとも、今に残る原始仏典はパーリ語(元は西インドの俗語)で書かれているが、釈迦自身は中インドのマガダ語で説法したと考えられ、釈迦の時代からは少しく時代が経った頃のものらしい。翻訳されたと考えられるので、今に残る原始仏典の原型があったのかもしれない。

 語られていることは現代に普通に暮らす我々にとってもわかりやすい。神々や悪魔のような超自然的存在はあまり出てこず、釈迦の誕生時や釈迦の修行時代などに伝説、あるいは象徴として少し語られる程度である。たとえば、悪魔についてはこんな具合。釈迦が語る。

 

ネーランジャー川の畔にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、

(悪魔)ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて、言った。

「あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。

 あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きた方がよい。命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。」

 

 もちろん、文字通りの悪魔が現れたとも考えられるが、自分に対する弱い自分の言い訳、弱い自分の心の言葉とも受け取れる。卑俗な例で情けないが、酒を飲みたくなったときに自分に「時にはリラックスして、心をほぐすことも大切だ。明日のために今は飲むのがいいのだ」などと言い聞かせてしまうようなものかもしれない。

 日本の伝統的な仏教では加持祈祷のような呪術が行われたり、諸神・諸仏や、超自然的な世界(たとえば、極楽、地獄)が現れるけれども、そのようなものはほとんど出てこない。今の我々の感じる現実世界と釈迦の住んでいた世界はとても近しい。たとえば、涅槃(ニルヴァーナ)というと、日本ではあの世のように捉えられることも多いが、釈迦の言葉はもっと普通である。

 

「ヘーマカ(稲本註:釈迦に質問した学生の名前)よ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。」

 

 涅槃は欲望、執着のない心の状態のことを言っている。

 老いによる衰えに悩むピンギヤという学生に対しては、こんなことを言っている。

 

「ピンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それゆえに、ピンギヤよ。そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」

 

 釈迦の臨終のシーンは感動的だ。まずは、長年、釈迦の身の回りの世話をした弟子アーナンダに語る。アーナンダは死を目前にした釈迦に号泣している。

 

「やめよ、アーナンダよ。悲しむなかれ、歎くなかれ。アーナンダよ。わたしはかつてこのように説いたではないか、ーーすべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。」

 

 諸行無常というのは何か壮大なことのように捉えられがちだけれども、少なくとも釈迦のこの言葉はわかりやすく、シンプルである。

 アーナンダに対する次の言葉が美しい。

 

「アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、私に使えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。」

 

 そして、まわりの者たちに最後の言葉をかける。

 

「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう。『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい』と。」

 

 この後、釈迦は息をひきとる。釈迦の生涯には奇跡も魔法もなかったようだ。

 日本の伝統的仏教が今のような形になったのにはそれ相応の理由があるだろうし、釈迦から二千五百年も経てば、いろいろなものが加わったり、変化したりもするだろうと思う。

 しかし、おれは原始仏典に書かれた釈迦の言葉が響くし、修行はとてもできそうにないけれど、釈迦の言葉は知恵(知る者の恵み)だと感じた。

アニメの癖

 災厄のときになると災厄の映画を見たくなるものなのか、Netflixでアニメ「アキラ」の人気が高まっているそうだ。

 おれは日本のアニメが苦手なせいもあって、今まで見たことがなかった。アニメだから、という理由で敬遠していたところもある。

 原作の漫画は好きである。

 昨日、食わず嫌いかもしれないな、と思って、見始めた。そして・・・やはりダメだった。開始3分で消してしまった。

 ファンの方には申し訳ない。自分が好きなものにケチをつけられると嫌だろう。まあ、しかし、おれの感じ方だ。仕方がない。

 おれは日本のアニメが苦手なのは、セリフまわしのせいもある。たとえば、「アキラ」の冒頭シーン(しか見てないのだが)で、夜の街にバイクで繰り出す金田たち不良少年のセリフ。

 

 

「そんなのに乗ってるほうが気が知れねえぜ」

「乗れるさ」

「ハハッ 欲しけりゃな お前もデカいのぶん取りな」

 

 

 文字で読むと特に違和感はないだろう。しかし、声で聞くと変な感じなのである。いかにも「書かれた言葉」を「話しているふうに見せ(聞かせ?)かけよう」というふうなのだ。

 声優たちが下手ということではないと思う。おれは自分からアニメを見ることはほとんどないけれども、ふと目に入ってくる他のアニメのセリフまわしも同じように「書かれた言葉」を「話しているふうに見せ(聞かせ?)かけよう」としているようにおれには聞こえる。

 外国の声優は知らないし、ニュアンスを感じ取るだけの外国語能力も持ち合わせていないので日本の声優についてだけ書くけれども、声優には声優の変な癖のようなものがあるように思う。おそらく、それは延々と培われてきて、その中で暮している人たちが普通に感じている「話し方」なのだと思う。

 そして、おれはそれに違和感を覚える。

 あとは、日本のアニメの大げさな誇張も苦手だ。宮崎駿の作品が典型的である。もう20年くらい見てないから、今はどうだか知らないけど。

 やはり、苦手なものには近づかないほうがよさそうだ。

陰謀論

 陰謀論というのは根強い人気のあるジャンルで、平常時には歴史上の陰謀論が唱えられ、非常時になると現代の陰謀論が唱えられる。

 陰謀というものは間違いなく存在するとおれは思う。米騒動と造船疑獄とオイルショックパナマ文書事件に関わったおれが言うのだから間違いない。

 しかし、陰謀論というのは一般的に陰謀というものが世の中にあるという話ではない。“もっぱら”陰謀によって世の中を動かすような大事件が起きると考えるものであって、甚だ怪しい。

 陰謀論を好む人は、世の中の事件がいろんな思惑やパワーの綱引きによって起きるということを理解しないか、あるいは目をつぶっている。現代の重要な事件というのはまず間違いなく多くのプレイヤーが多くの思惑とパワーによって絡み合い、くんずほぐれつしながらに起きるのだが、陰謀論を唱える人はそういう見方をしない。いわば、複雑系を単純系に置き換えるような乱暴な仕事をしている。

 陰謀論がはびこる理由のひとつは、逆説的だが、「実証できない」ことにある。証明できないからこそ、いろいろと想像をふくらませることができるし、都合のいい状況証拠を並べて証明に近いことができたように思える。だからこそ「実はおれは知っているのだ」と己を高めた心持ちになれてある種の快さを味わえるのだろう。

 陰謀論の楽しさというのは国際スパイ小説の楽しさに似ている。歴史の裏面で、からまり合って見えた糸がほどけるような快さを味わえる。もちろん、それは事実とは別の何かである。実証されてしまっては陰謀論は面白くなくなってしまう。

 ちなみに、本能寺の変ロスチャイルド家明智光秀に資金供与して起きたのだそうだ。

幸福な産院崩壊

 例のコロナ・ウィルスで世界中ドタバタしており、特にイタリアは大変な騒ぎのようである。

 外出が禁止され、アパートメントに住む人々がベランダに出て大合奏を繰り広げる動画が一気に広まったり、ボードビリアン達が手洗いの仕方や、直接の接触を避けることをお洒落にパフォームした動画が出たりして、愛される人々だなあ、とあらためて思う。

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 おれは自分の判断力のなさには負の自信を持っているので、統計や、当局の施策について何も語ることはない。ただ、統計は数で物事を語るけれども、その数のひとつひとつには生きてる人それぞれのドラマがあるとは思う。

 そうしたドラマについてつらつら考えているうちに、ふと十ヶ月後、どうなるのだろうか、と思い至った。

 若い男女が毎日、自分の家、部屋に閉じ込められているのだ。大災厄だから、人間、自然と結びつきを求めるようになる。しかもイタリア人である。十ヶ月後、医療崩壊ならぬ産院崩壊が起きたりして。

 イタリア人への偏見か。日本だって、外出禁止になったらどうなるかわからない。何しろ、本能がそういうふうにできているのだから、仕方がない。これで一気に少子化は解決・・・とはいかないか。

 1965年にニューヨークが大停電になったとき、十ヶ月後に赤ちゃんがたくさん生まれた、という話がある。まあ、こういうのは本当かどうかより、面白いかどうかで広まるのであって、オモシロ・ウィルスもまた人類の歴史とともにあるのである。

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