ちりめんじゃこの平等

 命の価値は平等である、という考え方があって、この思想に基づいて建てられたのが有名な宇治の平等院である。嘘である。

 観念論というのか、言葉に言葉を重ねて物事を考え、ある種のファンタジーに至ることがある。「命の価値は平等」というのもそのひとつだろうと思う。人間がかたまって住んでいくには、互いの了解事項があったほうが便利で、ファンタジーはその一種として活用される。

 「人間の命の価値は平等」ということはまあまあ受け入れられやすいほうだろう。お互いに死ぬのが嫌だからだ。

 ところが、ここで「人間」という枠をはみ出して見てみることもできる。「人間、人間というけれども、人間だけを対象にするのはいささか身勝手じゃないか? ずるくね? 」と考えだすと、動物まで(あるいは場合によっては植物まで)広げて「命の価値は平等」というファンタジーが広がっていく。

 あるいは、インド方面の伝統的な考え方が中国から日本へと流れ込んで、日本の土着的な山川草木みなひとつのような感じ方と合体すると、「命の価値は平等」という感じ方(理屈というよりも)が納得できるような気になってくる。

 しかし、ファンタジーは現実の前であっという間に粉砕されるのだ。

 

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Alpsdake [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)]

 

 なるほど、確かに、ちりめんじゃこの中に限れば、命の価値は平等である。

統制しないでくれ、陽気にしてくれ。

 おれは統制主義が嫌いで、基本的には各人勝手にやらせてくれよ、と思っている。

 だから、福祉の充実云々をいう政党にはそれはそれで結構だけど、統制せずにそういうことできるのかなー、と思って主張を見てみる。たいがい、そこについては触れていない。

 じゃあ、自民党はどうかというと、自由市場経済を支持しているようでいて、どうも競馬並みにカンでお金を突っ込んでいて、ロクなものではない。第一、党内のいろいろな意見が表にあまり出てこない。選挙区でひとりだけ公認されなければどうにもならない小選挙区制度のせいだろうか。これもまた一種の統制主義じゃないかと思う。党首のキャラクターのせいか、陰気である。

 自由主義の、それなりにまかせられる政党が見当たらない。ぽっかりその部分が空いているとも言え、困ったような、もしかしたら一部の政治家にはチャンスのような。

 陽気さがほしい。神経質さはいらない。

池、沼、湖

 恒常的に水が広くたまっているところについて、日本語には池、沼、湖という言葉がある。このみっつの違いはなんなのか、急に気になった。

 池と湖の違いはまあ何となく面積の広さかな、と思う。あまり広くないところが池と呼ばれ、広いところが湖と呼ばれる。

 では、池と沼、あるいは湖と沼の違いはなんだろうか。千葉県にある印旗沼はかなり大きいが、印旗湖ではなくて印旗沼である。富士五湖の山中湖や河口湖は印旗沼よりも小さいが(もっとも印旗沼は二つに分かれているせいもあるが)、山中沼や川口沼ではない。

 あくまで印象だが、沼というのはどこか泥くさく、どんよりしたイメージがある。夜など不気味そうだ。一方の湖はさわやか、朝は起きぬけ、昼はきらきら、夜は月、とまあ、全体に印象が良い。諏訪湖は湖と表記されるから美しいイメージがあるのであって、あれが諏訪沼では観光客もよりつかないのではないか。

 沖縄の那覇にはその名も漫湖という言語道断の名称の湖がある。

 

漫湖へようこそ|Welcome to Manko Wetland | 漫湖水鳥・湿地センター

 

 先日行ってきたのだが、潅木に囲まれた泥くさい場所で、湖というより沼であった。もっとも、漫沼ではいっそう湿って、においまでしてきそうで、それはそれで困ったものである。

天国に一番近い曲

 おれが小学生の頃にディスコ・ブームというのがあった。アバ、ビージーズがミラーボールの中できらめいておって、ジョン・トラボルタがサタデイ・ナイトでフィーバーしておるらしいという噂が見渡す限り田んぼの中にある富山県富山市でランドセルをかついでおる小学生の耳にも届いていたのであった。

 おれの中ではディスコ・ブームというのははるか離れた大都会の皮相的な流行的な話であって、パロディの対象以外として特に残るものはなかったのだが、アバの「ダンシング・クイーン」のきらめき感だけは記憶に残っている。

 最近、たまたま聞き直して、これが少々の気恥ずかしさも覚えつつも、いいのである。

youtu.be やたらとみんながスマイル、スマイルであるところは置いておこう。おそらく、この時代のこの場所ではそういう需要があったのだ。

 しかし、この曲調と、ボーカルの片方、アグネタ・フォルツコグの明るく派手で少しトゲのある声、そして要所要所で乗っかってくるピアノの「♪タタン、タタン、タタン」というコードワークには隔絶した素晴らしさがある。

 西洋において天国はいろいろと絵画に描かれてきたし、音楽にもあるけれども、ポップスの世界でこういう曲・アレンジ・演奏が出てきたことは奇跡に近いのではないか。バッハもムムムと白い鬘をかぶりなおす出来であると思う。

 酔っ払うと、多幸感というのだろうか、おれはアバの「ダンシング・クイーン」のような高揚した心持ちになることがある。しらふでそれを表現しているのだから、アバは素晴らしい(まあ、しらふだったかどうかは知らないけど)。

 西洋のポップスにおいて「ダンシング・クイーン」はおそらく最も天国のイメージに近づいた曲だと思う。インドでも、中国でも、中央アフリカでも、アンデス山脈方面でも、「ダンシング・クイーン」は天国に近いイメージの曲なのだろうか。

本音を表すための大阪弁

 平成30年間(1989 - 2019)の日本の言語表現として、大阪弁の全国進出が挙げられると思う。

 おれはもっぱら東京周辺を生息圏としており、東京中心の言語感覚しかわからないのだが、日常会話に大阪弁が入ることが増えた。

 たとえば、仕事の場で「ぶっちゃけ」という言葉がよく出てくるが、おそらく30年前にはありえなかった言葉遣いだろう。「ぶっちゃけ」はおそらく大阪の漫才の「ぶっちゃけた話が」の短縮形だろう。共通語で「すべてをぶちまけたうえでの話ですが〜」などというと、まどろこしくて、なかなか言葉として使う気にならない。「ぶっちゃけ」ならたったの三音節である。

「ちゃう」というのもここしばらくの間に広まった言葉だ。「違う」というと、断定的で角が立つが、「ちゃう」ならやわらかく、しかも意志の表現ができる。

 全般に、東京由来でNHK作の共通語は、どこか東夷的に荒っぽく、また生活に根ざしていない分、冷たい(本当の東京言葉は違うのだろうが)。NHK財務省で話されている言葉という印象である。

 その点、大阪の言葉は直截的で、しかも人間の生なぶつかり合いを避けるようなやわらかさがある。友達からの誘いをやんわり断るときの「考えとくわ」というのはその典型である。

 同じ関西言葉であっても、京都弁はまた違って、聞く側に裏を読み取る力が求められる。「そうですなぁ。いろんな事情がおますからなぁ」などと言われると、初心者には、なんなのだ、なんなのだ、複雑な家庭環境でもおますのか、などと考えてしまう。

 大阪弁というのは直截的、かつ人への当たり方がやわらかく、言語表現、コミュニケーションの道具としてよくできていると思うのだ。(河内弁は知りません)

地場の笑い、中央の笑い

YouTubeでいろいろと笑いについての動画を見ていて、これに行き当たった。大阪の昭和の笑いを担った笑福亭松鶴藤山寛美横山やすしについての番組である。

 

youtu.be

 顔ぶれを見ると、20年ほど前のものだろうか。

 大阪ならではの番組というふうに思う。取り上げられている笑福亭松鶴藤山寛美横山やすしは伝説的人物ではあるけれども、一方でそれを語る人々の口ぶりでは、まるで街角を曲がったところにその人がいてもおかしくないようでもある。

 同じような番組を今つくろうとすると、大阪ではできそうな気がする(取り上げる人物の大小は問わない)。東京では難しいだろう。東京の番組は街角を曲がったところの人を取り上げるにしても、いったん「中央」(全国ネット)の視野に広げざるを得ず、街角を曲がったところという感覚が電信柱一般になってしまうからだ。

 おそらく、1980年頃(漫才ブームの前)ならばまだ東京でも地場の「そこにいた人」の番組は作れたろうけれども、それ以後は中央の番組、あるいは全国ネットの番組になってしまい、こういう人の手触り、肌触りのある番組は、味がうすまって難しいだろうと思う。

 地場の笑いは大阪だけでなく、それぞれの地方でありえるけれども、東京の笑いは中央の笑いに同化してしまって、なかなか東京地場の笑いは作りにくい、とまあ、そんなふうに思うのだ。「〜じゃん」という言い方が東京と全国の両方で通用してしまって、地場で煮込むふうになりがたいように(もともとは横浜横須賀の言葉らしいけど)。

培養象牙

 培養肉なるものの研究が進んでいるそうで、肉の細胞を組織培養で増やすというものだ。今のところは価格が高くて実用とまではいかないそうだが、それでもこういうものは需要が見込める限りしつこく研究されるんだろう。

 それでふと思ったんだが、象牙の培養はどうか。ご案内の通り、象牙は工芸の素材や漢方薬として珍重される一方で、それを目当てとしたアフリカ象の密漁が横行している。高価なんなら、培養も元がとれるだろう。エッヘン。おれ、もしかして天才。

 しかしまあ、象牙がただシャーレの中で増えるというのも面白くない。どうせなら、あの牙の形ごとニョキニョキ生やしたい。象牙工場では象の牙が下から上へと大量に生えているのだ。

 同様に、サイの角というのも珍重と密漁の的になっているそうで、こいつも工場でニョキニョキ生やしたい。いっそ、サイの顔ごと生やしたい。どうせなら、象牙の隣に鼻も生やしたい。

 どうもこういうグロテスクな話は、自分でヒーと思いながらもヨロコんでしまう。グロ心とでもいうべきものが人間にはあって、それは実は象牙をヨロコぶ心と根っこは同じじゃないかと思うのだ。

 

Ivory carvers in Tokyo, by Herbert Ponting