フナムシのいのち

 動物の生き死にについて「同じいのち」(なぜかひらがなで書かれる)と言い出す人がよくいて、読んだり聞いたりするたびにおれは困ってしまう。

 犬猫のようにペットとして飼われている、というか、人によっては家族のような存在になる動物なら、まあ、気持ちがわからぬでもない。しかし、牛、豚、鶏となるとどうなのか、あるいはライオン、シマウマ、ヌー、オポッサムとなると「(人間と)同じいのち」と考えていいのか、怪しく思えてくる。まあ、たとえ同じいのちだったとしても、食うの食われるのという世界で生きている動物について、人間と同じように考えていいのか、すこぶる疑問ではある。

 あるいは、シャケはイワシはウニはどうなのか。海岸なんかに大量にいるフナムシも同じいのちなのだろうか。おれは温かい心が足りないのか、愛が足りないのか、とてもそんなふうには感じられない。

 おそらく同じいのち派の人々はこんなふうに考えているのだろう。人間もフナムシもいのちがあることは同じ → 同じいのち → 人間のいのちと同じようにフナムシのいのちも扱われないとおかしい。2番目と3番目の間にはだいぶんの飛躍がある。論理の展開をちょっと変えると、3番目は「フナムシのいのちと同じように人間のいのちも扱ってよい」となってしまう。

 人間もフナムシも同じいのちなのです、となると、それでは稲は同じいのちではないのか、ニンジン、ダイコン、カリフラワーはどうなのだ、と迷宮に入ってしまう。同じいのち云々というのは実は恣意的な物の見方ではないかと思うのだ。

 何かで、命なんてものは本当はないのだ、生きているという状態があるだけなのだ、と読んだことがあって、感心した。しかし一方で、言葉レベルの話では確かにそうかもしれれないが、そっち方面にがんがん進んでいくと、人間同士であっても殺伐とした関係になりかねず、何事もリクツはほどほどがよいように思う。

 こういうのはファンタジーの問題であって、おれもまた別のファンタジーの中にいるのだろう。ファンタジーと別のファンタジーが時たま真正面からぶつかってしまうことがあり、自分たちのファンタジーを押しつけるとなかなかうまくいかないことが多い。