見たいものを見てしまうのココロ

 たまたまここ2回ほど、日本論や日本人論への疑惑のマナザシについて書いたけれども、特に理由はない。毎度ながらの行き当たりばったりだ。

 「折りたたみ北京 現代中国アンソロジー」を読み始めたら、編者のケン・リュウが序文でこんなことを書いていた。ちなみに、ケン・リュウは中国生まれ、アメリカ育ちのSF作家である。

 中国SFの話題が持ち上がるといつも、英語圏の読者は、「中国SFは、英語で書かれたSFとどう違うの?」と訊ねます。

 たいていの場合、その質問は曖昧ですね……それに気の利いた回答はありません、と答えて、わたしは質問者を失望させてしまいます。(中略)適切な回答を提供しようとすれば、まったく無価値な、あるいは既存の偏見を再確認するステレオタイプな見方である大雑把な一般化にしかなりません。

 あーそーだよなー、と思う。まあ、人は何かに出くわしたとき、それまでに持っていた知識や見方を手掛かりにして評価をしようとするから、偏見を偏見と気づかずに再確認できるとウレしくなるのかもしれない。

 ケン・リュウはさらに書く。

“中国SF”の特徴を自信たっぷりに断言する人間は、(a)話題にしているものについてなにも知らない部外者であるか、(b)なにかしかは知っているものの、対象物の議論の余地のある性質を意図的に無視し、自分の意見を事実として表明する人間であるかのどちらかであるとわたしが考えているということです。

 この中の“中国SF”というところを“日本人”(あるいは“日本文化”でもよい)と置き換えると、日本人論に対する強烈な皮肉になる。

“日本人”の特徴を自信たっぷりに断言する人間は、(a)話題にしているものについてなにも知らない部外者であるか、(b)なにかしかは知っているものの、対象物の議論の余地のある性質を意図的に無視し、自分の意見を事実として表明する人間であるかのどちらかであるとわたしが考えているということです。

 日本人論に限らない。ナントカ人論の類の多くが「なにも知らない部外者」のものであるか、「自分の意見を事実として表明する人間」によるものだと思う。

 結局、ワシらは物事から見たい部分だけを見てしまう、あるいは見たいようにだけみてしまうんじゃないかと思うのよね。残念ながら。

 

折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー (ハヤカワ文庫SF)

折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー (ハヤカワ文庫SF)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2019/10/03
  • メディア: 文庫