disる心

「disる」という言葉がここ何年かでよく使われるようになった。揶揄するとか、ひどく言うとか、あげつらうというような意味で、主にネット上での言語活動に使うが、この頃は一般世界にも踏み出してきたようだ。

 例えば、今とっさにおれがdisるなら、こんなことを言いたい。

・なぜ日本のアニメはああも大仰であざとい演出が多いのか。声優の「え〜。〇〇なんですぅ〜」調の抑揚を聞くと回し飛び蹴りを食らわせたくなる。しかも演出や絵がどれも似たりよったりでうんざりする。馬鹿か。

・テレビのバラエティ番組で、観客の若い女性の「エーッ?!」という一斉の発話はなんとかならんもんか。ディレクターのキューで声を発しているのだろうが、頭が悪そうなうえ、こちらを馬鹿にされているような心持ちになる。腕ひしぎ十字固めを食らわせたくなる。

・安倍首相が憲法を変えると言っている。あの教養のない人間にまともな憲法をつくれるものか。チョークスリーパーを食らわせたくなる。

 しかしまあ、この手のテキストはしばらく経ってから読み返すと、自分でも嫌な心持ちになるものである。ましてや、読まされるほうは(たまに共感する人もいるだろうが)たいてい人のうんこを見せつけられたような気になるものだ。

 disるというのは思春期の反抗に似ている。不満やストレスのはけ口である一方で、何かを否定することによって自分を確立するという手口でもある。(自分は)Aを認めない、Bを認めない、Cは嫌いだ、と否定を繰り返すことで、自分像を作ろうとするのだ。

 たとえば、上記のおれのdisりはこんなふうに裏読みできるだろう。

・おれは芸能芸術エンターテインメント方面の表現について、アニメ制作者よりも幅の広さも奥行きの深さも理解しているぜ。少なくとも大人だぜ

・おれはテレビのバラエティの演出なんぞ見抜いているぜ。バラエティのディレクターの手口に乗せられるほど馬鹿じゃないぜ。少なくともああいう演出に疑問を持たずに乗っかっているイッパンタイシューほど馬鹿ではないぜ

・おれは安倍首相よりは教養があるぜ。憲法について考えるには教養と見識が必要なことくらいは理解しているぜ。少なくとも安倍支持者ほど馬鹿ではないぜ

 実にもってイヤラシイ。申し訳ない。

 disることによる自己確立というのはいわば木彫りの彫刻みたいなもので、どんどんいろいろなものをそぎ落としていく。周りからすると、その削った木屑を浴びるので、なかなか迷惑だったりもする。

 粘土像のようにいろいろなものを肉付けして自分を作り上げるほうがあるいはプラス思考かもしれない。が、おそらくdisるのは簡単だから、安易にやってしまうのだろう。もちろん、本当に自己を確立できているのかどうかは別である。