方言の浸透と吉本

 もうお亡くなりになったが、アートディレクターの長友啓典さんが大阪の笑いについて語るのを聞いたことがある。長友さんは大阪の出身(1939年生まれ)だが、戦後の大阪は今のようにお笑い全盛ではなく、日常会話も「まずは笑い」というふうではなかったという。ただ、学校で吉本の漫才を聞く機会があって、「あれは吉本のお笑い百年計画だったんじゃないかなあ」とのことだった。

 おれが富山で三国一の美少年と騒がれていたガキの時分(1970年代)も、テレビに演芸番組はあったが、夜の番組では今のようにタレントの半分がお笑い芸人ということはなかった。お笑いが全国のテレビで広く認知されるようになったのは1980年の漫才ブームの頃からだと思う。

 それでも今のように東京の人間が日常会話として大阪弁もどきを口にすることはなかった。明石家さんまが何かで言っていたのだが、さんまが東京に出てきた頃、大阪弁は東京で珍しがられ、時には露骨に笑われたりもしたそうだ。おれが大学で東京に来たのは1980年代前半だが、大阪出身の友達の言葉(「やで」とか「やねん」とか)がしばしばからかわれていた。東京では方言全般を小馬鹿にする風潮があったが、大阪弁もそのひとつだった。

 そう振り返ってみると、今は話し言葉が随分豊かになったと思う。大阪弁は全国的に完全に市民権を得て、第二共通語に近いくらいである。博多華丸大吉らの活躍で博多弁、千鳥の活躍で岡山弁も知られるようになった。方言ならではのニュアンスがポジティブに捉えられるようになってきて、よいことだと思う。

 それぞれの方言にはそれぞれのニュアンスがあり、たとえてみれば、同じドレミをピアノで弾くのとトランペットで吹くのとギターで弾くのでは受け取るものが違うようなものだ。方言のニュアンスが伝わるうえでお笑いの影響は大きく、そう考えると、20世紀終わりから21世紀にかけて(平成にほぼ重なる)言語文化方面に吉本興業という一企業が果たした役割は、あまり意識されていないようだが、随分と大きい。