デブの美的価値を考える

 おれがデブ化しつつあるということからの考察。前回からの続き。今回はデブを美的側面から捉えてみたいと思う。

 現代ではデブがネガティブに捉えられることが多い。「デブのくせに」という陰口には有無を言わさぬ、言い換えれば論理と倫理を超えたパワーがあり、そのパワーの根源がどこにあるのか、興味深い。

 歴史を翻ってみれば、デブがいつの世も否定されていたわけではない。本邦のたとえば源氏物語絵巻を見てみれば、絶世の美男とされる光源氏は顔が下ぶくれのデブであり、情をもつれあわせる女性たちの顔の輪郭もおたふく顔に近い。彼女たちの肉体は十二単に隠れてわからぬが、顔から想像するにおそらく小デブであろう。

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土佐光起『源氏物語画帖』若紫。小デブの光源氏が後の紫の上を覗いている。

 

 中国ではかつて、男がデブであること(限度はあるだろうが)は富を象徴したと聞いたことがある。また、絶世の美女、楊貴妃は、白居易の「長恨歌」で「春寒賜浴華清池、温泉水滑洗凝脂」と歌われたようにおそらく脂分の多いデブであったろうと想像される。

 言葉方面では「恰幅(かっぷく)の良い」という言い回しが残っており、これはデブをプラスに捉えた表現だ。恰幅の良い紳士。いいじゃないですか。

 しかるになぜ現代社会でデブが排撃されるようになったかというと、医療方面およびダイエット業界方面の事情や戦略もあるのだろうが、一番はデブが、「欲望にだらしない」ことの象徴だからであろう。

 風の噂に聞いたのだが、この世には資本主義の精神なるものがあるらしい。儲けをワッと使ってしまわずに、欲望を節制して次の儲けの原資に使う、而して富の拡大再生産を目指すというココロだそうだ。

 この資本主義の精神の人から見ると、「欲望にだらしない」ことは原資を減らすことにつながりかねず、すなわち反資本主義的精神の表れなのである。だから、資本主義の真っ只中にある現代社会(特に先進国)においては、欲望を節制し、一定の苦役(フィットネス、ダイエット)に耐えることが、スマート(賢いという意味もあり、スタイルがよいという意味もあり、洗練されているという意味もある)で格好良いと思われるのだろう。

 だから、デブは反資本主義的であり、現代の支配的な精神に反しており、すなわちみっともないとされるのだ。

 デブよ、勇気を持て。おれ達は無意識のうちに資本主義のうさんくささに抵抗しているのだ。おれ達のカラシニコフ銃はカウチとポテトチップス。ちなみにおれはKOIKEYA PRIDE POTATO 本格うす塩味が好きです。