ことわざの生命

「秋茄子は嫁に食わすな」ということわざがあって、なかなかに奇妙である。

 ことわざというのは一般に、世の中の仕組みや機微、あるいは人情の妙などを短い、しばしば奇抜なフレーズで納得させる。意味と表現のからみあいが卓抜なことわざは人口に膾炙し、後へと残る。つまらないことわざや、時代・世情と合わなくなったことわざは消えていく。ことわざの生命とはそうしたものだと思う。

 しかるに「秋茄子は嫁に食わすな」がいまだに残っているのは謎である。意味には3通りの説があるらしい。

a. 秋茄子は美味いから嫁に食わすにはもったいない。

b. 秋茄子は身体を冷やすから大切な嫁には食べさせてはいけない。

c. 秋茄子は種が少ないから食べると子種に恵まれないかもしれぬ(から、嫁に食べさせてはいけない)

 aはずばり姑の意地悪である。bはその逆で姑が嫁を大切にしていることを表しているが、どうもこれは姑側からの反論じみている。aだとまるで自分たちが悪者みたいなので、bの理由付けが出てきたのではないか。cはまあ、縁起担ぎ、あるいは類似の連想みたいなもので、わからんでもない。カズノコの反対であろう。

 不思議なのは、今の世の中でもまだ「秋茄子は嫁に食わすな」が生き残っていることだ。このさまざまな食べ物が手に入る世の中にあって、秋茄子はそんなに話題にするほどのものだろうか。意味aならば「千疋屋のメロンは嫁に食わすな」でもいいし、意味bならば「ビールは大ジョッキで嫁に飲ますな」でもいい。

 思うに「秋茄子は嫁に食わすな」は、「このことわざはいったい何を言いたいのか?」を議論するためだけに現代に生き残っているのではないか。「この作品はいったい何を言いたいのか?」と問いかけてくる現代アートのようなものであり、そういう意味では前衛的な姿勢のことわざだと思うのである。