知ってるつもり

知ってるつもり――無知の科学

知ってるつもり――無知の科学

 

 たまたま手にした本だったが、良書だった。多くの人がおそらく気づいているだろうことを認知科学の見地から上手に整理してくれる。

 我々は物事の多くを何となく「知ってるつもり」で暮らしていて、大過ないのでそのままにしているのだが、実は大して物事を本当に理解しているわけではない。たとえば、多くの人は洋式便器が流れる仕組みを知らないし、ファスナーが開閉する仕組みも知らない。それでも、ハンドルを下げるなりスウィッチを押すなりすれば水は流れるし、ファスナーの引き手を上げ下げすれば閉じたり開いたりする。

 世の中がうまく回っているのは個人個人が全ての知識を持っているからではなく、コミュニティの中で知識を分担しているからだ、というのが著者たちの主張だ。トイレのやファスナーの仕組みを個人個人がきちんと理解していなくても、便器のメーカーや配管工、あるいはファスナーのメーカーが仕組みを理解して、差配ができれば、世の中はうまく回る。人類がここまで繁栄できたのも、個人の知識が深く多いからではなく、むしろ、ひとりひとりの知識はたいしたことなくてもコミュニティのなかで知識を分担できたから、という。無知無能な私としてはとても納得がいく。

 しかし、この、コミュニティによる知識の分担には困った点もある。たとえば、政治に対する意見がそうだ。人々は大して知識がなくても「多くの人がそう言っている」ということから「知ってるつもり」になって意見をがなってしまう。

 一般的に私たちは、自分がどれほどモノを知らないかをわかっていない。ほんのちっぽけな知識のかけらを持っているだけで、専門家のような気になっている。専門家のような気になると、専門家のような口をきく。しかも話す相手も、あまり知識がない。このため相手と比べれば、私たちのほうが専門家ということになり、ますます自らの専門知識への自信を深める。

 これが知識のコミュニティの危険性だ。あなたが話す相手はあなたに影響され、そして実はあなたも相手から影響を受ける。コミュニティのメンバーはそれぞれあまり知識はないのに特定の立場をとり、互いにわかっているという感覚を助長する。その結果、実際には強固な支持を表明するような専門知識がないにもかかわらず、誰もが自分の立場は正当で、進むべき道は明確だと考える。誰もが他のみんなも自分の意見が正しいことを証明していると考える。こうして蜃気楼のような意見ができあがる。コミュニティのメンバーは互いに心理的に支えあうが、コミュニティ自体を支えるものは何もない。

 政治的な問題はたいがい複雑な要素のからみあいから成るが、人間は面倒くさいのか、価値観で直感的に判断してしまうのか、つい単純化してしまいがちになる。そうして、単純化した似たような意見の持ち主同士が結びつき、別の単純化した意見の持ち主たちを敵視してしまう。おそらくそうした敵視は快くもあるのだろう。SNSによって、こうした分断はより谷を深くしているようにも見える。

 人間は知ってるつもりで実は大して知っていない、ということを認めること。謙虚さは時に死活問題に活きると思う。