京都人のA.I.

 シンギュラリティと呼ぶらしいのだが、人工知能の知的能力が人間を超える日のことだ。SFで昔から描かれてきたテーマだが、どうやら現実的になってきているらしい。

 A.I.が人間に代わって応対することは基本的な受け答えなら実現している。それでふと思いついたのだが、京都人の応対をA.I.に学ばせたら、どうだろうか。京都人のA.I.、すなわち、K.I.(キョウトジン・インテリジェンス)の開発である。

 京都人の応対が、よその人間からするとしばしば皮肉っぽかったり、嫌味に聞こえたりするのはよく知られている。子供が騒いでいると「元気なお子さんでおすなあ」と言ったり、配達が遅れると「遅うまでよう働きはるなあ」と言ったりする、例のあれだ。

 まあ、実際には京都人といってもいろいろな方がいて、みんながみんないつも皮肉や嫌味じみたことをおっしゃるわけではない。おれは一年ほど京都に住んでいたことがあるが、嫌な思いをした覚えがほとんどない。しかし一方で、よそ者が容易に中に入れないような独特の空気を感じたことも確かだ。

 あくまで想像だが、千二百年の都であるからか、京都の人には人間の生なぶつかり合いを嫌うところがある。それで相手を持ち上げるような言い方をしつつ、それとなく気づかせる、という言語習慣ができたのだと思う。

 そこらへんの機微がよそ者にはなかなかわからない。それでもって、後になってふと「あ、あれは嫌味だったのか」と気づき、愕然とするわけだ。

 A.I.は、入力に対して、パターンを組み合わせたり、変形させたりして出力する。入力と出力を数々こなしながら、適切なパターンの組み合わせ方や変形させ方を学んでいく。人間が応対の仕方を学んでいくのと似て、最初はピントはずれでも、積み重ねで、だんだんと適切な応対(入力と出力)のかたちを作り上げていく。

 京都人の応対のパターンをA.I.が学んだら、どういうコミュニケーションが生まれるだろうか。散らかった部屋をカメラで見て、「このところ、忙しいようどすなあ」とのたまったり、休暇で海外旅行のセッティングをたのむと、「時間とお金に余裕のある方はよろしおすなあ」とのたまったりするのか。

 A.I.が京都人の応対を完璧に学び、こなしきるようになったとき、すなわち、K.I.が完成したときがシンギュラリティへの到達である。そしてそのとき、人間はK.I.を叩き壊したくなるにちがいない。