資本主義と自由市場主義

 同じようなことや似たことを述べても、言葉によって受け取るニュアンスは異なるもので、たとえば、「惚れる」と「恋する」では随分と違う。おれは英語があんまり得意ではないのでとっさに辞書を引くが、「惚れる」も「恋する」も、英語では「fall in love (with 誰それ)」か「be deeply in love (with 誰それ)」だそうだ。いや、だから日本語はスバラシイなどと言いたいのではない。英語には英語のニュアンスがあるのだろう。

 同様に、「資本主義」と「自由市場主義」では、捉える対象は似ていても、捉え方や出てくる結論が随分と異なるように思う。

 資本主義という言葉については、昔からなんだかなー、と感じている。19世紀のマルクス先生を引きずっているような古臭い言葉だが、いまだによく使われる。

 何しろ、「資本」主義である。言葉から連想するのは、お金、資本家、その対抗としての労働者(なぜか労働家とは言いませんね)、それから企業といったところか。資本家と言ったって、マルクス先生の頃にはそれこそ生身の人間のイメージだったのだろうけれども、現代では税金や年金や各種保険のお金が資本として市場で運用されているから、多かれ少なかれ、誰もが資本家である。一方で、お金持ちだって部分的に労働者だったりする。そもそも、「資本主義」と言い出すと、もっぱらお金の話が中心になってしまって、それでは話の内容がいささか貧しいんじゃないかと思うのだ。

 今の、新しいサービスが次々と生まれ、テクノロジーもやんやと進歩し、それに付随して人やモノの動きもじゃんじゃか変わり、消費者の側もそれに合わせて踊っているような世界を語るには「資本主義」より「自由市場主義」という言葉のほうが便利なように思う。自由市場主義のほうが供給者(企業が中心だが、政府も関わる)も消費者もお金も競争も連想しやすいからだ。「主義」だと信奉するしないみたいな話になりがちだから、「自由市場制度」のほうが言葉としてふさわしいか。ともあれ、自由市場を支点にしてそこでやりとりされるものや、付随して起きるあれこれやを見てみたほうがはるかに多くのことが得られると思う(まあ、自由市場が全てではないけれど。たとえば、友情も家族愛も自由市場ではほとんどやりとりできない)。

 もちろん、資本主義という言葉を使っても、ちゃんとした論者はちゃんとした内容を語れる。しかし、おれも含めて、有象無象(うぞうむぞう)が資本主義という言葉を生半可に使うと、どうもお金のほうに気が向いてしまう。それでは世の中があんまり見えないと思うのよね。