祈るから神(々)がいるのか、神(々)がいるから祈るのか

 ここ数日、天気がよい。早めに起きて、カーテン越しに朝日が差し込むのを見て、朝日に手を合わせる人の気持ちが少しわかるような気がした。

 それでふと考えたのだが、人間は祈ったり、感謝したりする対象がほしくて、神(々)という存在をこしらえたのだろうか。それとも、神(々)がいるから祈ったり、感謝したりするのだろうか。

 おれには深い信仰はない。自分勝手にお不動さまを守り本尊ということにしているが、これは家の割と近くに目黒不動尊があるのと、心がやたらとふらつくので、お“不動”さまに一方的に盃を向けているのであって、深い帰依とか、信仰心があるせいではない。他方で、無神論を唱えるほど頭が鋭いわけでも、おっちょこちょいなわけでもない。

 深い信仰を持つ人は、おそらく神(々)がいるから祈ったり、感謝したりするのだろう。しかし、おれのようなふらふら者は、もしかすると、何かに祈りたい、感謝したいと思うから人間は神(々)を設定するのではないか、なんぞと不敬な仮説を唱えてみたくなるのだ。いや、申し訳ない。

 朝日というのは誠に結構なもので、祈ったり、感謝したりするのには格好な相手である。これが中天のお日様が相手であると、手を合わせるのにいささか無理な格好をとらざるを得ない。あるいは仰向けになって祈るという方法もあるかもしれないが、それはどうもばちあたりな感じがする。そういうわけで、祈りたい、感謝したいという気持ちが先にあって朝日信仰というのが生まれたんではないか、なぞと不敬な考えを持ったんだが、さてどうだろう。

 なかなか答えは出ないはずだ。なぜなら、おれがいるから女性が惚れるのか、世の女性が惚れたいからおれがいるのか、三国一の美少年であった頃からいまだに答えが出ていないからだ。