米朝の「百年目」、志ん朝の「百年目」

 金曜に休みをとって、自転車で東京を走った。上野から浅草へ出て、堀切から荒川の土手を走り、旧中川べりから門前仲町へと抜けた。雲間からぱっと日がさす瞬間が何度もあって、快かった。

 桜(ソメイヨシノ)は場所によって二分咲きくらいだったり、ほぼ満開に近かったりした。桜の下を走ると、やはり浮いた心持ちになる。

 浮いたままに、昨日はiPod桂米朝の「百年目」と古今亭志ん朝の「百年目」を聴いた。

「百年目」は、大店の真面目一筋と思われている大番頭が主人公の噺。実は花街で遊びなれていて、芸者や太鼓持ちをあげて花見にわっと繰り出す。その遊びの現場で主人に出くわしてしまい・・・とまあ、そんな内容だ。

 米朝の「百年目」は主人の風格が素晴らしい。米朝自身、一門においては大店の主人のようなものだし、花街でも風雅に遊んだようだから、最後の番頭に意見するところに貫禄があり、きびしくもあたたかい。

 一方の志ん朝の「百年目」は米朝のほうより笑わせどころが多い。例の唄うような口調が花見気分に合っていて、楽しい。おれは一時、志ん朝ばかり聴いていた時期があって、そのせいで実はちょっとあの唄い調子に飽いてしまった。しかし、花見時分の浮かれた心持ちにはあの口調と、志ん朝自身の華やかな明るさがぴたりと来て、酔える。

 米朝志ん朝の「百年目」は、それぞれの人(にん)が噺に活きていて、いい。

 今日の昼に家の近くのかむろ坂を自転車で下ると、桜並木は満開であった。

米朝十八番

米朝十八番