感情と倫理

 タイトルを書いて、笑ってしまう。大げさである。まあ、おれの書くことだから、内容は大したことにならないはずだ。
 このところ、「知情意」という視点で物事をとらえることを時々してみている。知は理屈、知性。情は感情、感性。意は意志とも言えるし、道徳、倫理とも言える(ここのところがまだ整理できてない)。知性、感性に照らしあわせるなら品性だろうか。ここでは、仮に倫理ということにしておく。
 話は変わるが、たまに家の留守電に世論調査の自動音声が残されていることがある。「あなたは安倍政権を支持しますか。支持しませんか。支持する方は1を……」などと問答無用で問うてくる。
 先日も世論調査の自動音声が留守電に録音されていて、ふいに腹が立った。見ず知らずの機械が人の家に電話してくるのも失礼だし、安倍政権を支持するのしないのといきなり突っ込んだ話を切り出すのも失礼ではないか。新聞社かテレビ局か知らんが、公器だからといって、人のうちに土足であがるようなことをしていいというわけではなかろう。人には人の道があるのではないか。
 とまあ、そんなふうに思ったのだが、ふりかえってみると、これは自分に都合のいいすり替えである。
 おおもとは、世論調査の自動音声が不愉快だ、というおれの感情だった。それを、「マジ、ムカつくー」だけでは賛同を得にくいと思うのか、「大勢の人間にとって」という話にすり替えた(失礼云々のところ)。あげくのはては人の道まで持ち出し、感情の話を倫理の話にすり替えてしまった。正義の側に身を置こうというのだ。卑怯者の行いである。
 この手のすり替えは、結構よく行われるように思う。己の怒りや悲しみの代償を求めて、倫理を持ち出すのである。あまり褒められたことではない。(←また倫理を持ち出してしまったが。)