米朝とあの世

 桂米朝の落語が好きで、よく聞く。
 米朝は何年か前に亡くなり、そのとき九十くらいだったから、おれはほとんど同時代体験をしていない。何かの落語の会で他の落語家と座談する姿を見かけたくらいである。噺は、もっぱらCDからiPodに落として聞いている。
 だから、プロフィール的な紹介の仕方をするほかないけれども、戦後、ほとんど滅びかかっていた上方落語笑福亭松鶴(六代目)とともに立て直した偉大な人である(昭和二十五年頃、大阪の落語家は、松鶴米朝も含めて片手で数えられるほどという心細さだったそうだ)。博覧強記で知られ、学者肌のところもあり、噺の端々に知性の輝きが感じられる。
 ここからは一方的な親しみを込めて、米朝さんと呼ばせていただく。
 米朝さんの落語を聞くと、おれはふわーっといい心持ちになる。良い料理屋で、小さなグラスで口にする日本酒のような感じである。しゃきんとしたかすかな緊張感もあり、それがまた心地いい。同じ伝で言うなら、松鶴は居酒屋か焼き鳥屋で仲間とわいわい飲む燗酒かどぶろくの楽しさだろうか。
 テレビで弟子の桂ざこばがこんなことを語っていた。あるとき、米朝さんと道を歩いていて、ざこばがふと「師匠、あの世てあるんですかねぇ」と訊いた。米朝さんは「人間な、知らいでもええこともあんねんで」と答えたという。
 自分の話で恐縮だが、おれは二十代の頃まで、この世に神などいない、いるわけがないと思っていた。あの世などというものもなく、人間は死ねばただ無くなるだけ。神やあの世などいうものは人間が自分の都合のいいように作り上げた虚像である、などと考えていた。なぜなら、進化論にも、物理方面にも、医学方面にも神やあの世の存在を示す証拠はなく、むしろそれを否定するような状況証拠ばかりだから。
 こういうのを小賢しいというのだろう。小さい賢さ。一方で、「人間な、知らいでもええこともあんねんで」という米朝さんのちらえ方は大きい賢さだと思う。
 米朝さんがもし仏教のほうに進んだら、ありがたいお上人さまになったのではないか。