水滸伝の明るさ、日本の物語の湿り気

 先週に続いて水滸伝の話。
 おれが水滸伝を好きなのは、その明るさ、楽天性のゆえもある。
 もちろん、水滸伝は長い、長い物語だから、中には暗い話や陰惨な話もある。主人公達(林冲宋江、武松……)が人に陥れられたり、裏切られたりもする。しかし、基調はカラリと明るい。
 翻って見るに、日本の物語は江戸時代も後半に入るまで、色調が渋いというか、湿り気を帯びた話がほとんどのように思う。源氏物語平家物語、菅原伝授手習鑑、仮名手本忠臣蔵南総里見八犬伝、どれも湿っている。南総里見八犬伝曲亭馬琴水滸伝を換骨奪胎した物語だが、忠義だ、孝行だとがんじがらめなうえに説教くさく、水滸伝の明るい乾いた楽しさはすっかり消し去られてしまった。
 水滸伝の明るさは自由の明るさだと思う。高島俊男先生によると(水滸伝についてのおれの知識は高島先生の「水滸伝の世界」「水滸伝と日本人」からのみ)、水滸伝の「思いのまま」「無拘束」な自由さを快活(コワイホ)と言うのだそうだ。水滸伝梁山泊に集まってくる主人公達は、さまざまな事情によって平常の生活から離れざるを得なくなる。あるいは、最初から勝手気ままに(コワイホに)生きている。その、男伊達と仲間同士の紐帯以外の何物にも縛られない天地自在の境地によって、水滸伝の明るい色調は生まれているように思う。
 一方、日本の物語は、たいてい世の仕組みやしがらみの中で主人公が苦しむ。彼らは世の中の制度や縛りの中でしばしば悲劇に見舞われ、その範囲内で答えを出すのであって、制度や縛りの外に出てしまうことはない。自由のなさが物語の基点になっている。
 もっとも、江戸時代も幕末に近づくにつれ、歌舞伎の白浪物(盗賊を主人公にした演目)に代表されるような、悪の自由さをあっけらかんと描く物語も出てくる。人々が本能的に「封建社会って何だか怪しい」と感じ始めたせいかもしれないし、もっとダイレクトに水滸伝の影響だったのかもしれない。
 ……と、ここまで水滸伝は明るい、明るいと書いてきたが、その最後は哀しい。梁山泊の頭首宋江は朝廷に帰順して大戦果をあげ、栄達するが、陰謀によって朝廷から送られた毒酒をあおり、乱暴李逵を道連れにして死ぬ。李逵も、兄貴と一緒になら、と従容として死を受け入れる。宋江の死を知った梁山泊の軍師呉用宋江李逵の墓を訪ね、弓の名手花栄とともに、樹に首をかけて死ぬ。
 水滸伝の最後の十回は哀切で美しい。自由な境地にいた主人公達がしがらみの中へと戻り、それぞれの形で死んでゆく。勝手気ままな楽しさ、明るさが基調だっただけに、強いコントラストをなす。カラリと哀しい。

水滸伝の世界 (ちくま文庫)

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水滸伝〈8〉 (ちくま文庫)

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