翻案 冥途の飛脚

 昨日、誘われて、国立劇場文楽公演を見てきた。ここ数年、文楽にはご無沙汰していた。
 二部の「曽根崎心中」、三部の「冥途の飛脚」を見た。どちらも近松門左衛門の心中物である(「冥途の飛脚」は後段で心中未遂に終わるそうだが、おれは未見)。五時間心中につきあうとさすがにどよんと来た。ついでに尻が悲鳴をあげた。
「冥途の飛脚」は大阪の飛脚屋の主人忠兵衛と女郎梅川の話である。忠兵衛は新町の女郎、梅川のもとに通い詰めている。その梅川が田舎者に身請けされそうになる。忠兵衛は大名家の蔵屋敷に三百両を届ける途中、梅川のいる茶屋に立ち寄る。そこに居合わせた友人の八右衛門に説教されたのを、軽侮されたと思い込み、蔵屋敷に届けるはずの三百両の封を衝動的に切って梅川を身請けする。ばれれば死罪だから、忠兵衛と梅川は逃げ、心中の道行となる。
 中盤の「新町封印切りの段」で、八右衛門の説教に忠兵衛がぶちぎれ、三百両の封を切る(=横領する)ところが最大の見せ場だ。おれとしてはこの段をいっそ、「忠兵衛逆ギレの段」と名付けたい。
 観劇の後、一緒に芝居を見た十人ほどで食事に行った。女性陣の感想は総じて忠兵衛に冷たかった。「梅川はなんであんな男に惚れたのか」、「いっそ田舎者に身請けされたほうが幸せだったんじゃないか」、「人生経験が足りないから、そこのところがわからないのだ」などと、なかなかに手厳しい。かく言うおれも、人生経験が足りないせいか、あまり忠兵衛に肩入れする気にはなれない。
 文楽の「冥途の飛脚」がもやもやするのは、梅川があでやかすぎるせいもあるかもしれない。美女の頭(かしら)を使って、昨日は鮮やかな朱の着物を羽織っていた。プログラムなどでは「遊女」と紹介される。これまたきれいな言葉だ。しかし、実態は売られた下層の「女郎」であり、大門から外に出ることのできない不自由な身の上で、体を男たちに弄ばれる境遇だったはずだ(そんななか、客の忠兵衛に優しくされたから、惚れてしまったのか)。もとより自由恋愛のできる身の上ではない。姿があでやかだとそのあたりが見えにくくなるようにも思う。また、芝居の観客側の、主人公を善玉と見たい、主人公に共感したい、(それなのに・・・)という無意識の気持ちも作用するのかもしれない。
「冥途の飛脚」を現代に翻案するなら、こんなところだろうか。
 主人公の忠(ただし)は信用金庫の社員で、親のコネで一応は出世コースに乗っている。性格は軽躁で、やや弱いところがある。この頃は風俗にはまり、ソープランドのうめかちゃんに入れあげている。うめかは親の義理の悪い借金が原因でソープランドで働かされており、実は何度か手首を切っている。ある日、集金の途中、忠はうめかの働くソープランドに寄る。ソープランドではうめかがヤクザに、親の借金の利息を払え、と詰め寄られている。止めに入った忠はヤクザに愚弄され、ぶちキレて、集金の金300万円を渡してしまう。業務上横領である。我に返って、わなわな震える忠に、うめかが逃避行を持ちかけるが・・・。
 とまあ、こう置き換えると、映画にもできそうである。忠兵衛や梅川の気持ちが少しはわかる気もするのだが、どうだろう。