伝説化のプロセス

 先週、司馬遷の「史記」のエピソードには神話、伝説、事実の3つのフェーズがあると書いた。そして、読んでいて最も面白いのは伝説である、と。

 考えてみれば、当たり前である。伝説というのはいろんな人々の間で話が面白く伝わっていくうちに形成されていくものだからだ。噂話について考えてみればわかるが、伝わっていくのは事実ではなく、話の「面白い部分」である。話から面白い部分を選り抜いて、つまらない部分や、話し手にとって都合の悪い部分は捨ててしまい、面白い部分をさらに面白くなるように話を作り変えたり、付け加えたりしていく。そういうプロセスをいくつも経て、伝説はできあがっていくのだとおれは思う。

 そういう意味では、伝説というのは人々の「こうあってほしい」という期待が結晶化したものと言える。ヒーローだけでなく、アンチヒーローについても「悪役はこういう悪であってほしい」という期待が伝説として結実するのだろう。もし集合的無意識というものが存在するとしたら、それはオカルト的なものではなく、伝説化のプロセスの中で積み重なっていく「こうあってほしい」という期待の集まりみたいなことなんではないか。

 司馬遷の時代の伝説化のプロセスについておれには知識がないけれども、おそらく口づてと書によったのだろう。書にはもっぱら木簡、竹簡が使われた時代だから、文は簡潔でそぎ落とした表現が望まれ、ニュアンスより話の大筋が重視されたろうと思う。伝説のバリエーションの数も、後世より限られていたのではないかと思う。

 ずっと時代が飛んで、近世になると伝説化の手段、経路は爆発的に増えたと考えられる。中国の元、明の時代は講談や芝居が随分盛んになったそうだ(その結果、生まれたのが水滸伝三国志演義である)。日本でも、江戸時代には講談や芝居で荒木又右衛門や源義経大石内蔵助が描かれるように、ヒーローは「こうあってほしい」という像がさまざまな形で語られ、演技された。さらに近代〜現代となって、小説や漫画、映画、この頃ではゲームも加わって、伝説のバリエーションがどんどん増えていった(戦後にあって、歴史上の人物の伝説化に最も大きく影響を与えたのは、司馬遼太郎に代表される歴史小説と、NHK大河ドラマだろう)。

 伝説はもちろん面白いし、楽しいのだが、一点、政治的判断のベースになるのはいささか危険だろうと思う。「こうあってほしい」という期待と、「実際はこうなる」という事実は別のものだからだ。

 たとえば、今でも「サムライ」を好んで語る人は多いけれども、おれには、実際の侍が、今、小説や映画、テレビドラマ、ゲーム、スポーツにまつわるあれこれ(サムライジャパンとか)で語られるものだったとはどうにも思えない。今の「サムライ」は小説や映画(七人の侍!)などで「こうあってほしい」という像が結実したものなんだろう。それを事実と取り違えて、日本人の精神性と結びつけて語るのは、実はかなりあやういことなんではないかと思う。

史記 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

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