運動と労働

 自転車で荒川の貯水池(彩湖)に行ってきた。
 行くのは初めてである。彩湖のまわりはなかなかきれいな公園として整備されてあった。おれにとっては運悪く、公園の周回路はマラソン大会のため、通行禁止になっていた。仕方がないので、荒川の土手を走った。
 土手から大勢のマラソンランナー達を見下ろしながら、ふと「古代人がこの光景を見たら、何をしていると考えるだろうか?」と思った。ひたすらわらわらと、時に苦しげな顔をしながら走る人々。古代エジプト人が見たら、出エジプトとでも思うのではないか?
 フィットネスクラブのランニングマシン上で走る人々も古代人にとっては理解不能ではないかと思う。何かの刑罰か、あるいはガレー船を漕ぐみたいな労働と考えそうだ。
 あのランニングマシンだが、おれはいつももったいないなーと思う。どうせただ走るなら、いっそあの回転しているベルトで発電でもしたらどうか。その電力でフィットネスクラブの照明をまかなうのだ。ペースが落ちてきたら、部屋全体が暗くなる。ペースを上げれば、部屋が明るくなる。目の前のデジタル計をただ見ているより、駆り立てるものがあると思うのだが。
 発電といえば(今日は連想でどんどん行く)、少し前、空手連盟が電力小売りに参入するということでちょっと話題になった。

→ 日本経済新聞 - 空手連盟も電力小売り参入 収益で五輪選手育成

 最初、おれはてっきり正拳突きの素振り(素突き?)で紐を引っ張って、発電機を回すのかと思った。

 このエネルギー、ただ空気を切るのではもったいないと思うのだが。