蠟小平と貧しさ

 タイトルの「とうしょうへい」の「とう」の字が変な字に化けているかもしれない。書体のコードの問題らしい。書きたいのは左が「登」で右がこざとへんである。
 さて、前回に引き続き、蠟小平の話。
 中国が文化大革命(「階級闘争」の名のもとの、広範な社会地位転覆騒乱)を突き進んだ1967年、党の総書記だった蠟小平は政権の座から引きずり下ろされた。1969年には、「毛沢東思想の再教育」のため、江西省のトラクター修理工場の機械工となった。
 エズラ・F・ヴォーゲルの「蠟小平」から少し長くなるが引用する。

 たとえば、蠟榕(稲本註:蠟小平の娘)によれば、一九七一年六月に蠟樸方(稲本註:蠟小平の息子。紅衛兵に責められ、窓から転落して身障者となっていた)が江西に到着した後、蠟小平は父親として樸方にできることを探すため、修理の必要なラジオはないかと同僚たちに聞いて回った。ところがある労働者は、ラジオを変える金なんて誰も持っていないと答えた。社会主義建設から二〇年も経って、労働者の家庭がラジオの一つも持てないことを知り、蠟小平が心理的に非常に苦しんだと蠟榕は述懐している。
 もう一つの体験は蠟小平の子供のものだった。半身不随で動けない蠟樸方以外の子供たちは全員、肉体労働に従事し再教育を受けるために農村に送られた。陝西省北部の農村での滞在を終えて江西に帰ってきたとき、蠟榕は田舎にはトイレも豚小屋もなかったと家族に話して聞かせた。しかもすべての子供たちが、農民には食べ物も着るものも十分ないと両親に報告した。子供たちは両親に経済の荒廃の様子や党組織の壊滅ぶりを話して聞かせたが、それらは蠟小平が建設に向けて懸命に努力を重ねてきたものだった。蠟は明らかに動揺していたが、なにも言わずに子供たちの話を聞き続けたという。

 蠟小平自身は個人的な記録を何も残していないそうだが、蠟榕の観察が正しいなら、蠟小平が社会主義中国の貧しさを本当に肌身で感じたのはこの時期ではなかったか。
 蠟小平は徹底した実利主義者だったという。おそらく、彼にとっての社会主義とは、高邁な理念ではなく、人々が貧しさから抜け出し、豊かになるために社会全体がどう動いていけばいいのか、というすこぶる具体的なものだったのだろう。そして、社会全体を強力に設計・運営するには統制的な指導力が必要だから、共産党による開発独裁の体制を築いたのだと思う。
 毛沢東の死後に政権を握った華国鋒は「毛主席が下した決定はすべて実行しなければならず、毛主席が行った指示はすべてその通りにしなければならない」という「二つのすべて」を唱えた。文字どおり教条主義である。それに対して、蠟小平は「実事求是」(事実に基づいて真理を追求する)を唱え、巧妙な政治的手段も使って華国鋒を引きずり下ろした。
「実事求是」は、身も蓋もない言い換えをするなら「現実を見よ」ということなんだろう。

現代中国の父 トウ小平(上)

現代中国の父 トウ小平(上)

現代中国の父 トウ小平(下)

現代中国の父 トウ小平(下)