さんまと志ん生

 先週に続いて、明石家さんまについて思うことを書く。
 さんまは、驚異的な場回しのよさ、どんな相手でも笑いに持っていくトーク術で知られている。あのテクニックをさんまはどういうふうに身につけたのだろうか。
 番組の中で、特にお笑い芸人を相手にするとき、さんまがテクニック論を語ることがある。たとえば、「ツッコミはな、見てる人がそう思う0.5秒前に入れんねん」「子供を相手にするときはな、一回全部ノッかんねん。まず全部受け入れんねん」などというふうに。さんまの笑いは実はこういう細かいテクニックの組み合わせでできている。
 割に知られている話だが、さんまは家に帰ると、ビールを飲みながら録画しておいた自分の番組を見直すという。「おれって面白いなーと笑いながら見てる(笑)」と本人は言うけれども、照れ隠しだろう。おそらく自分の姿を、ビデオで見ることで客観的に分析しているのだとおれは思う。「ここは正解やった」「ここはこうしておくべきやった」「こういう相手にはこう出ると上手くいくんやな」「こうやったらもっとオモロくなるんやないか」というふうに。プロ野球選手やサッカー選手がビデオでプレーをチェックするようなものかもしれない(いや、もちろんおれの想像だが)。
 古今亭志ん生と似ていると思うのだ。
 志ん生は同じ噺をやっても、その時々で組み立てが違う。ディテールも違う。くすぐり(落語の中のギャグのこと)も違う。本人もよくマクラで「えー、あたくしは出たとこ勝負で話してますんで」などと言っている。いわば、アドリブで落語を組み立てて話していたようだ。
 天衣無縫というか、デタラメなエピソードをたくさん持っている志ん生だが、若い頃は金も仕事もないので、東京中を歩き回りながら、ぶつぶつぶつぶついろんな噺をつぶやいていたという。おそらく、噺をつぶやきながらいろんな組み立て方やくすぐりを実験していたのだろう。「こうしたらどうか」「こうやると案外いけるじゃないか」というふうに。志ん生の膨大なレパートリーと、あのアドリブならではの生き生きとした噺の感覚は、若い頃のそうしたシミュレーションの繰り返しで培われたのだとおれは思う。
 日々、積み重ねたチェックとシミュレーションから来る何でも来いの対応力と絶対的自信、とでも言おうか。努力とか研鑽などというと違うふうに感じられてくるが、習い性から来る、本人の頭の中にしかない膨大なパターンの累積が、さんまにも志ん生にも財産となっている(いた)のだろう。ひとり百戦錬磨とでも言うべきか。