ふたつの進化

 このところ、カンブリア紀についての本を続けて読んでいる。
 カンブリア紀は5億4200万年前から4億8800万年前までの約5千万年間のことで、この期間に動物は爆発的な進化を遂げたとされる。その前のエディアカラ紀には海綿かサンゴのような自力ではほとんど動けない動物か、小生物の這った跡くらいしか見つかっていないが、カンブリア紀になると、突然、多種多様な動物が海中を泳いだり、海底を歩いたり、穴を掘って餌を待ち構えたりするようになる。このことを、しばしば「カンブリア爆発」と呼ぶ。
 今日の目から見れば、奇態な動物も多い。とても魅力的なので、いろんなCGで再現されている。例えば、こんなのとか。

 まるで動物の体と動きのデザインの実験場だったかのようである。
 おれがなぜカンブリア紀に興味を持ったかというと、ここ数百年の科学技術、モノ、サービス、生活の爆発的変化と、カンブリア紀の爆発的進化に何か共通点はないか、と思ったからだ。まあ、愚かな人間の浅はかな思いつきである。
 結論からいうと、共通点はあんまりない。
 たとえば、カンブリア紀の動物の個体に当たるものを企業だとしよう。単純化すると、動物は餌を得て個体を維持あるいは大型化し、企業はお金を得て維持あるいは大型化する。餌あるいはお金を得るのに失敗すると、死ぬか、倒産する(あるいは吸収される)。ここのところは似ているといえば、似ている。しかし、動物の大きさには体の構造から来る固有の限界があるのに対し、企業は相当程度まで巨大化することができる。構造的な限界もないことはないが、動物の構造から来る制約のキビしさとは比べものにならない。
 また、動物には捕食・被捕食の関係があるが、企業にはない。「食うか食われるか」という表現が使われることがあるが、企業の場合、買収を別とすれば、実際には市場の中で生きられる場所を得られるかどうかの争いであって、どちらかというと、植物が一定の場所の中で日光を奪い合う関係のほうに似ている。
 何より、企業は自分たちの意思で動けるし、形を変化させられる(と少なくとも多くの人は信じている)。動物は自分の意思で変化することはない。子孫を代々残すことで形態が変化してはいくが、その変化は場当たり的で(これが生物の進化の重要なポイントだ)、たまたま生き残った形が受け継がれていく(そして次の場当たり的な変化が起きる)だけである。よく生物の進化について「進化の戦略」みたいな言い方がされる。たとえば、「尺取虫の進化の戦略は小枝にそっくりの形態を採用することだった」というように。しかし、これほど誤解を招く言い方もないものだと思う。尺取虫やその祖先に「こういう形態になろう」という戦略あるいは意思なぞない。彼らは、代々、場当たり的に形を変化させていった結果、小枝に似たタイプの子孫が生き残っただけである。
 では、動物の個体に当たるものをモノやサービスだと考えるとどうだろうか。人間が扱えるモノやサービスはここ数百年で、爆発的に進化した。カンブリア爆発に似てないだろうか。
 しかし、考えてみると、やはり違いばかりのようだ。
 根本的な話でいえば、動物の個体が餌を得て生命を維持させているのに対し、モノやサービスでお金を得るのは企業、あるいは個人である。モノやサービスは企業あるいは個人が生み出して、お金と交換される。モノやサービス自体が資源を得て自らを維持、拡大するわけではない。そこには必ず企業や個人などの主体が介在している。
 また、動物はさっきも書いたように、固有の体の構造(たとえば、頭、胴、尾部からなるとか、体の両側に4対の歩脚があるとか)に強く制約されているが、モノやサービスはそれほど構造に縛られていない(構造に縛られるのは人間のアイデアのほうである)。前世代のモノやサービスが元になって次世代のモノやサービスが発想される(形態が進化する)という考え方はなかなか魅力的だが、それは生殖によるものではなく、自由で曖昧でぼんやりしたアイデア、概念のつながりによるものだ。
 あえて、カンブリア爆発と、現代社会の科学技術、モノ、サービス、生活の爆発的変化の類似点を挙げるなら、「環境の変化によって新しい競争状況が生まれ、より多くの資源(餌やお金、権力)を得たものが生き残る」ということだが、これでは共通点というより、類比、類似にすぎない。
 長々と、己の思いつきの愚かさ、浅はかさを書きおろす結果となった。まあ、進化の話は興味が尽きないから、かまわんけど。