コワイホ

 おれは水滸伝が好きで、何年かに一度、周期的に読みたくなる。
 最初に読んだのは小学生のときで、図書館でたまたま手にとってみたら、面白くてしょうがなく、借りて、読みふけったのを覚えている。以来、ワカゾーのときは一時離れていたが、三十代になってあらためて読み出すとやはり面白かった。以来、周期的に楽しく読んでいる。
 何がそう面白いのだろう、と思うのだが、もちろん、好漢(善人という意味ではない。ならず者の男伊達というニュアンスが近い)たちの離合集散、あるいは喧嘩っぷり、アレヨアレヨの話の展開も面白い。そして、全体に流れる勝手気ままな空気がまたよいと思うのだ。
 高島俊男先生が「水滸伝の世界」にこう書いている。

 水滸伝の主要なテーマの一つは「自由」である。
 水滸伝では自由は多く「快活(コワイホ)」という語であらわされる。「快活(コワイホ)は「思いのまま」「無拘束」といった意味を持つ語であり、同時に「さばさばした愉快な気分」という語感をも帯びている。つまり「たのしく愉快で、何者にもしばられぬ気ままな状態」が「快活(コワイホ)」である。

 水滸伝のコワイホは、しばしば飲み食いとして表れる。手元にある本(「水滸伝駒田信二訳、ちくま文庫)から適当に拾ってみよう。

 そのとき、深・冲・超・覇(稲本註:魯智深林冲・董超・薛覇)の四人は、村の居酒屋にはいって腰をおろすと、給仕をよんで肉を五六斤買わせ、酒を二角いいつけて飲み、麦粉を買って餅をつくらせた。

(・・・)亭主は青い絵模様のついた甕を両手に抱いて持ってき、泥の封を切って、白い大きな鉢に注ぎ入れる。武行者はそれを眼のはじっこでちらちらとにらんだ。穴蔵で多年、年を経た上酒だ。風の加減で芳しい香が漂ってくる。その香を嗅いだ武行者は、のどの奥がうずうずとむずかゆくなってきて、今にも横から奪いとって飲みかねまじき勢い。見ていると、亭主は、こんどは台所から皿に盛った二羽の鶏の丸煮と大皿山盛りの上等の牛肉を捧げて出てき、その男の前に置いた。

李逵は腰刀も短刀もとりはずし、腰の物入れや包みなどもみな下男にあずけて、朴刀は壁に立てかけた。曹太公は皿に山盛りの肉と大きな壺にいっぱいの酒を出させ、おおぜいの大戸(上戸)や里正や漁師たちはつぎつぎに酒をついで大椀や大杯でしきりに李逵にすすめた。

 こんなふうに水滸伝にはやたらと肉と酒が出てくる。大した描写があるわけではないが、この肉がやたらとウマそうなのだ。
 思うに、水滸伝を読み継いできた中国の人々のほとんどはこうした肉や酒をふんだんに飲み食いできたわけではないのだろう。それだけに、山盛りの肉や鶏の丸煮や甕一杯の酒を飲めるということが「たのしく愉快で、何者にもしばられぬ気ままな状態」=「快活(コワイホ)」と感じられたのだと思う。そうして、そういうコワイホの快感は昔の人々よりは肉や酒に接しやすいおれ、あるいはガキの時分のおれにも十分に感じ取れる(た)んだろう。
 水滸伝を換骨奪胎した里見八犬伝なんかにはこんなコワイホの快感はない。おれが(そしておそらくは多くの人々が)水滸伝を好むのは、ひとつにはこういうコワイホ、天衣無縫の自由勝手さにあるらしい。