桜田門外の変

 幕末の歴史を主に孝明天皇一橋慶喜会津藩桑名藩から眺めた本。
 幕末から明治維新にかけての歴史(と小説、ドラマなど)は新撰組を別とすれば薩長土の視点から描かれることが多い。しかし、当然ながら歴史というのは多種多様の勢力や人間の関係の中で動いていくもので、歴史の舞台に立った人々にはそれぞれの立場と正義(と信じるもの)と思惑と行動があったはずである。ニュルンベルク裁判や東京裁判に基づく史観を「勝者による歴史」と捉えるならば、薩長土を中心とする史観も「勝者による歴史」と捉えるべきだろう。それが公正な態度だとおれは思う。
 ともあれ、どのような立場をとるにせよ、安政七年(1860年)の桜田門外の変が日本の歴史の分水嶺であったことに異を唱える人は少ないだろう。幕府の大老井伊直弼が水戸脱藩者ら18名に暗殺されるという前代未聞の事件である。桜田門外の変によって幕府の強権は一気にしぼみ、日本の歴史は天皇、将軍、お殿様から下級武士、浪人、有象無象までが入り乱れてのアラエッサッサー状態に突入する。
 桜田門外の変については有名な逸話がある。
 事件のあった三月三日(新暦三月二十四日)は朝から雪模様で、襲撃の時刻には雨交じりの小雪となっていた。江戸城に登城する井伊直弼の籠は彦根藩の60名の行列で守られていた。しかし、供侍たちは雨合羽を着、刀を袋に入れていた。襲撃側が撃ったピストルに驚いて大半の者は逃げ散り、残った者もすぐに刀を抜けず、まともに応戦できなかった。わずか18名の襲撃側が勝てたのは季節外れの雪のおかげだったのである。もし晴れていたら歴史はまた別の道筋を描いていただろうと考えると、偶然が歴史に影響するところは大きい。
 井伊直弼は居合の名手だったが、籠の中で銃撃に逢い、傷を負った。護衛者のいなくなった籠には何本もの刀が突き刺され、襲撃側唯一の薩摩藩士有村次左衛門が止めを刺すために井伊直弼を籠から引きずり出した。しかし、有村次左衛門は名乗りをあげようとして、極度の緊張と興奮のあまり、こう叫んでしまった。
「さ、薩摩藩士、ありゃむりゃじゃじゃえもん!」
 さすがは天下の大老井伊直弼は深傷を負いながらも有村の顔を見据え、こう尋ねたという。
「いいなおすけ?」
 ・・・すいません、すいません。これは何かで読んだジョークでした。
 桜田門の門番はすぐに異変に気がついた。彼は詰所に走って番頭(ばんがしら)に告げ、番頭は慌てて目付に報告した。目付も驚き、非常の事ゆえ本丸へと自ら走った。「ご注進! ご注進!」とおめきながら松の廊下を駆け抜け、老中の御用部屋に飛び込んで、いぶかしむ老中達に叫んだ。
桜田門外が変!」
 ・・・すいません、すいません。もうしません。