昭和歌謡曲を聴く〜喝采

 先週に引き続き、昭和の歌謡曲を聴いてみたいと思う。ちあきなおみの「喝采」である。
 この曲が大ヒットした1972年、おれはまだ5歳で、「ウンコ、チッコ、バヒュ〜ン!」と喚きながらそこらへんを走り回り、電信柱によじ登ってはワーッと脳天から落っこちたりしていたから、「喝采」の内容を理解してはいなかった。それでも、出だしの「いつものように幕が開き」とサビの「あれは三年前 止めるあなた駅に残し」というところはよく覚えている。「喝采」という歌、そしてちあきなおみの歌唱、恐るべしである。
 まずは1972年当時のちあきなおみの歌を聴いてみよう。

 今見ても(聴いても)惹かれる。素晴らしい曲であり、素晴らしい歌唱である。なお、番組の尺の関係なのか、二題目の前半が省略されているが、ストーリーはこれでもつながる。
 続いて、天童よしみのカバー。

 おれの中ではちあきなおみの「喝采」が決定版として記憶されているから、カバーにはどうしても点が辛くなってしまう。追いかける側が圧倒的に不利である。天童よしみの場合、歌の上手さはわかるが、特にサビの部分でこぶしを回し過ぎていて(あるいは、こぶしが勝手に回ってしまうのか)、違和感を覚える。「喝采」という洋風の歌(汽車、教会、待合室、降り注ぐライトなど、道具立てが洋画みたいである)に、こぶしはそぐわない。
 次は、一青窈によるカバー。

 これもまた歌唱テクニックを使い過ぎに感じる。一青窈がこの歌をとても好きなのは理解できるし、歌の上手さもわかるが、それを言い出せば、ちあきなおみは歌がもっと上手い。しかし、そのテクニックを目立たせないように抑えて使い、聴く者を歌の世界に引き込んでしまうところに、ちあきなおみという歌手の本当のうまさがあると思う。一青窈についてはその一人芝居的な手振りも気になる。全体に演技過剰、歌唱過剰に感じる。
 迂闊にも、この一青窈版を聴いて初めて気がついたのだが、ちあきなおみ版ではAメロ(「いつものように幕が開き〜」というところ)のリズムが抑えられており、サビ(「あれは三年前〜」)になって突然リズムが強調される。感情の高まりとともに、「走り始めた汽車」の疾走感も感じさせる。この歌を映画的に感じさせる理由のひとつであり、見事な編曲だと思う。
「喝采」の歌詞は、先にも書いたようにまるで洋画みたいである。何とも言えない深い感情を表現した歌なのだが、驚いたことに歌詞には「悲しい」とか「空しい」といった感情を表す形容詞がひとつも入っていない。「黒いふちどりがありました」とか、「走り始めた汽車にひとり飛び乗った」とか、「教会の前にたたずみ」とか、脚本のト書きみたいな言葉だけでほとんど成り立っている。それが一編の映画を見るような効果を生み出している(ちなみに、一題目では「いつものように幕が開き」だが、二題目の最後は「いつものように幕が開く」である。わずか一音の違いだが、主人公の感情の変化を見事に表している)。
 ここで、この歌についてちょっと引いた視点から考えてみたい。歌をリクツで考えるというのは、下手するとヤボチンスキーになりかねないのだが、なぜこの歌におれは深く感じ入るのか、その理由を考えてみたいのだ。自分が大好きなものを語ることによって、あらためて愛を感じるという、例のファン特有の心理も働いている。
「喝采」という歌は、真実と仮の関係をテーマにしている。演技する「俳優」を主人公にした芝居や映画と同じで、歌という仮の世界を聴衆に真実と感じさせることがなりわいの「歌手」を主人公にしている。

 このように、「真」の世界に生きている生身の歌手が「仮」の世界である恋の歌を歌い、そして昔の恋人を失うことによって、その「仮」の世界を歌っている自分に空しさを覚える、という構図である(二題目の、ラジオから聞こえたと思われる「私の耳に私の歌が通り過ぎてゆく」という歌詞は、日本の歌謡曲史上最高に美しい瞬間だと思う)。あるいは、その空しさを抱えながら日々を生きていかねばならない人間の哀しみを歌っているとも言える。
 そして、この「喝采」という歌を「ちあきなおみ」という生身の人間が歌っている。

 つまり、「真」の世界の「ちあきなおみ」が「仮」の世界の「喝采」を歌い、その「喝采」の中では「真」の世界の「スターになった生身の歌手」が「仮」の世界の「恋の歌」を歌っている、という入れ子のような構造になっているわけだ。

入れ子の例
「恋の歌」(仮)と「スターになった生身の歌手」(真)という関係(AとB)が、「喝采」という歌(仮)と「ちあきなおみ」という生身の歌手(真)の関係(CとD)と二重写しになる。

 ちあきなおみが「喝采」を歌うとき、聴衆はその歌の世界に引き込まれながら、心のどこかでちあきなおみという歌手(真)と「喝采」という歌(仮)、スターになった生身の歌手(真)と恋の歌(仮)を重ね合わせている。そして、AとB、CとDが微妙に重なり、ちょうどエフェクトのエコーやリバーブ、コーラスのような効果を生んで、この歌に深みを加えているのだとおれは思う。
 生身のちあきなおみは1978年に俳優の郷えい治(「えい」は金ヘンに英)と結婚した。人も羨むほどの夫婦仲だったそうだ。1992年に郷が亡くなったとき、ちあきなおみは柩にしがみつき「私も一緒に焼いて」と号泣したという。以来、ちあきなおみはマイクを置き、一切公の場に出なくなった。Cの世界を捨てたちあきなおみ(瀬川三恵子)は、今、Dの世界でのみ生きているらしい。