ちょっと極論

 昨日、ある文章を読んで違和感を覚え、ネット上のある場所にこう書いた。

ちょっと極論。

 あらためて見てみると、変な言葉遣いである。「極論」というのは論旨が極端に走り過ぎていることで、「ちょっと」は少しというような意味だろう。少しと極端というのは相矛盾するから、リクツっぽく言えば「ちょっと極論」というのはおかしな表現である。
 辞書で(手を抜いてgoo辞書でだが)「ちょっと」を引くと、こうある。


ちょっ‐と【一=寸/▽鳥渡】

[副]《「ちっと」の音変化。「一寸」「鳥渡」は当て字》
1 物事の数量・程度や時間がわずかであるさま。すこし。「―昼寝をする」「―の金を惜しむ」「今度の試験はいつもより―むずかしかった」
2 その行動が軽い気持ちで行われるさま。「―そこまで行ってくる」
3 かなりのものであるさま。けっこう。「―名の知れた作家」
4 (多くあとに打消しの語を伴って用いる)簡単に判断することが不可能なさま、または、困難であるさま。「私には―お答えできません」「詳しいことは―わかりかねます」

[感]《1の述部を省略したもの》人に軽く呼びかける語。「―、お客さん」

「ちょっと」を副詞の3の「かなりのものであるさま。けっこう。」ととらえれば、「ちょっと極論」という表現の奇妙さは多少やわらぐが、おれはそんなつもりで書いたわけではない。
「ちょっと極論」の「ちょっと」を、おれはおそらく人とのハードなぶつかり合いを避けるために書いたのであろう。「極論。」と断言してしまうと、「なーにを偉そうに」とか、「お前、本当にわかっているのか」とか反論が出る可能性があり、そうした摩擦を避けようという無意識の意識が働いて、おそらく「ちょっと断言」とおれは言葉をやわらげたのだと思う。
 この手の表現のやわらげというのは日本語の文章や会話によく見られる。「少し思ったのですが」とか、「言い過ぎかもしれない」とか、「言えないこともない」といった表現は、しばしば相手(読み手や会話の相手、批判の相手等々)との摩擦をやわらげる意図で使われる。どうもここらへんに、周囲とのハードヒットを避けたがるという日本語文化の特徴のひとつがありそうである。
 この言葉をやわらげる日本語文化的特徴は、中国由来の漢語の誇張的傾向と相性が悪い。特に漢語の慣用句と組み合わせると、しばしば奇妙な感覚世界が生まれる。

ちょっと怒髪衝天。

白髪三千丈くらい。
(ちなみに三千丈は中国の丈で換算すると、約10km)

少し、臥薪嘗胆。

そこそこ百花繚乱。

ビミョーに獅子奮迅。

ややもすると酒池肉林。