大脳の自動化

 前回、人間の器官は大脳神経系統の器官と、自律神経系統の器官におおまかに分けられそうだ、と書いた。見方によっては、大脳に余計な神経を使わせない(文字通り!)ために、自律神経は大脳と無関係に働くようできているとも考えられる。
 自律神経は一種、自動的な回路だが、大脳神経系統にもまた自動化している部分がある。例えば、ピアノを弾く、なんていう行為は非常に複雑であって、右手と左手の指を全てバラバラに、しかも調和させながら動かすという芸当をこなしている。これは頭でいちいち考えてできることではなく、大方は意識の外側でコントロールしており、意識のほうは表現のやり口、あるいは特別に注意を払うべき指に集中している。こういうのは、長年の反復練習の果てに、意識の外で自動的にコントロールする回路ができあがるんではないかと思う。
 いや、ピアノを弾くなんていう特殊な行為ばかりでなく、直立二足歩行なんていう身近な行為も大脳の自動化がなければ不可能であろう。我々は自然に、あるいはうかつにひょいと歩いているけれども、前後左右のバランスを取りつつ、上体、腰、腿、膝、足首、足先を調和させながら適切な場所に足を踏み出すなんて、意識で考えてできる行為ではない(確か、筒井康隆に歩くという行為をひたすら細かく分解して何ページも費やす小説があったと記憶している)。
 おれの観察では、この自動化するという行為、年をとるにつれて増えていくようである。たとえば、おれの会社にはカード式のセキュリティシステムがあり、センサー部分に与えられたIDカードを当てると、オフィスのドアを開けられるようになっている。おれは毎日、これを何度もやっているわけだが、時々、駅の自動改札のカードセンサーにうっかり会社のIDカードを当ててしまい、けたたましい警告音とともにゲートをふさいでしまうことがある。逆もまたあって、オフィスのカードセンサーにパスモのカードを当て、若い者に「それでは開きません」とゲラゲラ笑われることがある(くそ。年とればお前らにもわかるぜ)。こういうのは、きっと「センサー→カード」という大脳の回路の自動化ができているんじゃないかと思う。ただ、どのカードを当てるかというところが混線するか、自動化しきっていないのだろう。
 まあ、要するに日頃からぼーっとしているということを言い訳してみただけなんだが、このまま自動化が進むと、いずれおれは徘徊老人と化すのだろう。テケテケ自由に歩くぜ。ごめんなさい、まわりの皆さん。