不自然な合唱

 市川崑監督の「ビルマの竪琴」をDVDで見た。終戦直後の日本軍一部隊を取り上げているのだが、これがやたらときれいな声で合唱して不自然なのである。一応、部隊長が音楽学校出身ということになっているのだが、「ワシら正しい発声法で美しい声を響かせております。グリークラブです」というふうで、終戦直後の飢えた南方軍がそんなわけないだろうと感じた。急に嫌になって、見るのをよしてしまった。
 同じようなことは「ゴジラ」の一作目を見たときにも感じた。確か、ゴジラに首都を襲われた日本の乙女達が急に悲しみを込めて合唱を始め、それを聞いた青年博士が秘密兵器の使用を決断する、というストーリーだったと思う。乙女達の合唱がこれまた「わたしたち正しい発声法で美しい声を響かせております」というふうで不自然であった。
 最近の日本映画はあまり合唱を使うことはないが、戦後しばらくの日本映画には割に合唱が出てくるように思う。「二十四の瞳」もオープニングが「仰げば尊し」の子供〜大人のリレー合唱だったと思う。今ほど楽器が容易に手に入れられる時代でなく、お金のかからない合唱が今より手近だったのかもしれない。
 でまあ、おれの感じ方なのだが、声の整った合唱は、挿入歌としてならともかく、劇中人物の行為としては不自然なように思う。特に、気持ちが高まってきて大勢で歌いだしたら合唱団的な響きになる、というのは非常に変だ。だいたいにおいて普通の人というのは発声法なんぞテキトーだし、声も技能も音感もバラバラの人間達が集まって歌うのだから、荒い感じになるはずである。また、本当に気持ちが高まって自然に声が合わさるときに「正しい」発声法なんぞ気にかけるもんか、と思う。
 バラバラだと合唱がダメになるかというとそんなことはない。以前にも紹介したが、YouTubeにあがっている南アフリカの中学生(高校生?)の歌う民謡「ショショローザ」の合唱が素晴らしい。

→ SHOSHOLOZA - SOUTH AFRICA 2010

 出だしはおそるおそるという感じだが、やがて一気に上り詰める。声の質や何かはバラバラだ。しかし、この響きの素晴らしさは「正しい」発声法を気にかけ、まわりと「気持ちをひとつに」などと抽象的なことを考えていては生まれ得ないものだろう。
 同じ「ショショローザ」だと、映画「インヴィクタス」の試合シーン途中で、わき上がるところも素晴らしい。ラグビー・ワールドカップ決勝の正念場でスタジアムから自然発生的にショショローザが響くシーンである。

 もちろん、映画なので演出なのだが、これが合唱団的な「声を揃えた」合唱だったら興ざめだったろう。バラバラなものがバラバラなままに急にわっと合わさるから感動的なのであって、「合わさる」と「合わせる」の違いは大きいのである。監督のクリント・イーストウッドはさすがにここらへんの案配が上手い。
 芸術方面については好き嫌いなので、クラシック的な合唱が悪いとは言わない。ただ、しょせん、人間はバラバラで不揃いで、だからこそ刹那的に結びついて感動することもあるのだと思う。