心中の甘美さと寒々しさ

 先週の日曜、国立劇場文楽を見にいった。昼の部が曾根崎心中、夜の部が心中天網島という心中二本立てである。
 どちらも近松門左衛門作で心中が題材だが、作品の描き方が随分と異なっており、一日のうちに二本見くらべるのは興味深かった。
 曾根崎心中の心中には快楽がある。男女の情(いろ)の甘美さがある。男主人公の手代徳兵衛にはこれといった落ち度はなく、ただ親友と思っていた九平次に金をだまし取られたことだけがしくじりと言えばしくじりだが、これは詐欺にあったのだから運が悪いとしかいいようがない。
 芝居の中ほどには、遊女お初が膝にかけた打ち掛けのなかに徳兵衛が隠れ、お初の足にのど笛を当てて心中の意思を伝えるというエロティックなシーンがある。刹那だからこそ燃え上がる愉楽のような何か。最後の心中ではふたりは恍惚としており、不幸に取り囲まれながらも至福のなかで死んでいく。
 一方の心中天網島は、そもそも作者が男主人公の治兵衛に対して冷たい。治兵衛は短慮で自己中心的で変にプライドが高くメソメソしたダメ人間として描かれる。客相手の遊女小春の心にもない言葉を盗み聞きして逆上するかと思えば、小春を思い切った後、コタツの中でうじうじふて寝する。そうして、女房のおさんが実家に連れ戻されると、「このままじゃ恥ずかしいし、やっぱ、小春か」とばかりに何やら安易に心中へと向かう。こんな男のどこに小春は惚れたのかと思うのだが、まあ、元禄の昔からダメ男好きはいたということなのかもしれない。あるいは――ありえそうなこととして――男の弱さが不自由な身には優しさやいたわりと映ったのだろうか。
 最後の心中も何やら寒々しい。「悪所狂ひの身の果ては、かくなりゆくと定まりし」という身もふたもないような冷ややかな視線の浄瑠璃。世間に気兼ねしてというか、世間体を気にして、小春と治兵衛は少し離れたところで死ぬ。
 曾根崎心中の人間関係や世間は徳兵衛とお初の不幸の中の至福を描くための道具立てのように思える。一方、心中天網島では世間の視線が最後まで治兵衛と小春の間に割って入っている。曾根崎心中の徳兵衛とお初は抱き合って刃物で死ぬが、心中天網島の治兵衛は小春を刺した後、塀にかけた長い布で首を吊り、ぶらりと揺れる。心中とは言い条、治兵衛と小春の間にあまり心の通い合いはないようであり、それぞれの事情で死ぬという点ではインターネットで見つけた知らない者同士が自殺するごとくである。