意味とニュアンスを気にしない英語

 おれはコピーを書く仕事をしている。仕事方面の目で世の中を見て、よく気になるのが言葉としての意味とニュアンスを伝える意図のない英語の使用である。
 たとえば、今、たまたま手元にあった本を手に取ってみよう。「メデイアの生成 アメリカ・ラジオの動態史」という本で、著者は日本人で中身も日本語で書かれている。表紙には日本語タイトルのほかに「FORMATION OF MEDIA. DYNAMICS HISTORY OF AMERICAN BROAD CASTING.」と書いてある。さて、この英語には何か意味を伝える役割があるのだろうか?
 おそらく、本を手にしたほとんどの人がこの英語を「読む」ことはないだろう。この英語の担う役割はテキストとして意味を伝えることではなく、また、日本語を読めない人にタイトルを伝えることでもおそらくなく、一種のシンボルとして(日本の土着イメージから離れて)「現代的」です、「洗練」されています、「国際的な共通土台」の上に立っています、という印象を伝えることであろう。いわばテキストを使用しながらも、英語を半ば図像として扱っている。
 まわりをぐるっと見回してみていただきたい。メッセージを伝えることを意図していない英語がいかに多く使われているかおそらく確認できるだろう。
 英語を使えば洗練されたイメージを伝えられるんだからそれでいいではないか、という考え方もあるだろう。しかし、同じものを英語をネイティブとして使いこなす人が手に取ったときにどのような印象を覚えるかを考えてみていただきたい。もちろん、綴り間違いや文法の間違い、あるいは全然別の意味やニュアンスになるいわゆる「Engrish」的なものは恥ずかしい。しかし、そうでなくとも、英語をネイティブとして使いこなす人には安易に飾りとして入れた英語は別のかたちで見えるだろう。
 ビジネス方面では聞き飽きるほどに「グローバル」という言葉が使われる。企業はグローバルに対応できる方向に進め、あるいは進まざるを得ない、というムードなのだろう。
 おれは思うんだが、本当にグローバルになりたいと思うのなら、飾り的な英語の使用はやめたほうがよい。なぜなら、飾り的な英語は一見「グローバル」の印象を与えながら、その実、日本語ネイティブかつ英語をさらりと読めない人だけを相手にしている内向きの発想だからだ。尻馬に乗るようにグローバル、グローバルと唱えることには抵抗があるが、一方で人の行き来が頻繁になった結果、タイポグラフィも含めてきちんと英語のニュアンスを解する人々が日本国内向けの物を手にとる機会は増えているだろう。英語を使うんならきちんとメッセージを伝えるよう配慮すべきだと思う。