白兵銃剣主義とものづくり

 大東亜戦争における日本軍敗北の組織的理由を扱った「失敗の本質」と、「アメリカ海兵隊」を読んだ。「アメリカ海兵隊」の著者、野中郁次郎は「失敗の本質」の共著者でもある。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

アメリカ海兵隊―非営利型組織の自己革新 (中公新書)

アメリカ海兵隊―非営利型組織の自己革新 (中公新書)

 日本軍敗北の理由はそれこそ多岐にわたって絡み合っているし、おれにはここで上手に整理する時間も頭もない。ただ、読みながら、ふと「日本が得意とするものづくり」というよく目にするフレーズが頭に浮かんだ。
 日本陸軍は自軍の白兵による銃剣突撃の強さに相当な自信を持っていたようだ。また、「必勝の信念」といった己の精神力への信仰もあった。ところがいつのまにかそうした自信や信仰が絶対化してしまい、何しろ「絶対」であるから自動的に相手への軽侮となり、ノモンハン事件での関東軍作戦課の「ソ連外モンゴル軍に対しては三分の一程度の兵力で十分」といった判断や、ガダルカナルにおける「米陸軍は弱い」といった予見につながった。
 おそらく、日本陸軍の銃剣突撃や精神力への自信は当初、日露戦争の戦果や太平洋戦争初期の快進撃など、何らかの根拠があったのだろう。ただ、相手の現状との比較や細かな内容的分析を忘れ、絶対化してしまったところが致命的だった。
 「日本が得意とするものづくり」といった単純かつ絶対的な捉え方もこれに似ている。確かに、戦後の一定期間、日本の自動車や家電製品の性能は優れており、またよく売れた。ただ、それはあくまで戦後の一定期間固有の話だったのかもしれず、今も今後もそうとは限らない。
 日本は本当にものづくりが得意なのだろうか。それはもしかしたら日本陸軍における白兵銃剣主義のような、裏付けと彼我の比較を欠いた信仰の可能性はないだろうか。
 おれが思うに、日本のメーカーが性能の優れた自動車や家電製品を作れたのにはおそらく保護政策や為替、米国メーカーの戦略ミス、周辺国の資本主義成熟の遅れなど、幾分ラッキーな歴史的条件も絡んでいたのではないか。もちろん、日本のメーカーの企業努力も大きかったろうが、だからといって「日本はものづくりが得意」と絶対化できるわけではない。現に、かつては日本が歯牙にもかけなかった韓国製や台湾製の家電や情報機器に、おれは今、特に不足を覚えないし、あるいは台湾製の自転車に今乗っているが、なかなかいい自転車で、しかも安かった。
 アメリカの海兵隊はその点、客観性・合理性に重きを置きながら、戦術を進化させているようだ。元々は海軍の警察部隊兼基地防衛部隊だった組織が、太平洋戦争で水陸両用作戦(簡単に言うと、敵の占領する島に上陸し、制圧するための戦術)の手法を開発し、そして戦後はアメリカの海外における即応部隊としての戦術と組織を整えるに至った。失敗も含め、彼らは戦訓を戦術と組織の進化に上手く取り入れている。しかも、海兵隊には、日本軍が過小評価していた「ガッツ」も実はあり、ガッツを鍛えるシステムも持っている(例の下士官が新兵に顔を近づけて「お前のおふくろの×××は×××で××××の臭いがする!」などと罵声を浴びせまくるブーツ・キャンプが代表的)。
 日本のものづくりについて語るにしても、それがどういう歴史的条件のもとでどういう部分がどういう理由で何に比べて優れていた(いる?)かを見ないかぎり、またその強みと限界を捉えないかぎり、実利は生まれないように思う(まあ、気持ちよくなりたいだけなら、「ものづくりが得意」で終わっていてもいいのだが)。
 己の何かが優れているとしても、相手も優れているかもしれないし、あるいはやがて優れるようになるかもしれない、ということなのだろう。麻雀で、己の手ばかり見てヨロコんでいるとメタメタにやられるのと同じである。