選んで角度を決めてつなぐこと

 下のビデオをちょっと見てみていただきたい。全部見る必要はなく、「ああ、そういう話ね」とわかったらそこまでで十分である。お互い、忙しい。

 内容をおすすめするわけでも何でもなく、出来がよいわけでもなく、ただサンプルとしてわかりやすいと思ったので取り上げた。
「【洗脳自虐歴史教育からの完全解放】日本に対する世界の評価 」とタイトルがふってあるけれども、先の戦争に対して日本への好意的な意見だけを集めれば当然こういう内容になるだろう。タイトルは「日本に対する世界の評価」ではなくて、「日本に対する世界の評価から自分に気持ちいいものだけを集めてみました」が適当なように思う。逆に否定的な意見だけを集めれば当然正反対の内容になるはずだ。
 まあ、このビデオはあまりに露骨で笑ってしまうが、自虐史観であれ、自慢史観であれ、自分が見たいものばかりを集めて、あるいは集めたものを自分が見たい角度からばかり見て、そうして「歴史はこうだったのだ」と語るケースが世には多いように思う。編集(歴史観も一種の編集の結果である)というのは選んで角度を決めてつなぐものだからそうならざるを得ないところもあるのだが、ちょっとでも素に戻る視線や、引いて眺める態度があれば、出てくるものはもう少しバランスがとれ、小馬鹿にされることも減るだろうに、と思う。
 昔、台湾で大地震があったとき、たまたま妹が台北に留学していた。日本のテレビには台北で倒壊したホテルがずっと映っていて、相当ひどいことになっているのではないかと随分と心配したものだ。しかし、後で聞くと、台北で大きな被害があった建物はそのホテルだけだったそうだ。集中して語られるもの、見せられるものについて我々はつい敷衍してしまいがちだけれども、語られていないもの、見せられていないものが実際にはどうなのかが同じくらい大切だと思う。統計的な視点と言ってもいいかもしれない。
 まあ、最初のビデオについてちょっとだけ悪意の排泄を許してもらえるなら、タイトルで「洗脳自虐歴史教育からの完全解放」と謳っているけれども、この程度のビデオで解放されるような洗脳なら、たとえ解放されてもすぐに別の何かに洗脳されてしまうだろうと思う。この無邪気さはちょっとうらやましいくらいだ。