東京都がオリンピック招致活動をしていて、盛り上げようとあちこちでキャンペーンを張っている。昨日、都のある施設に行ったら、受付の人にオリンピック招致のバッジを勧められた。オカミの回し者になるのもイヤなので、丁重にお断りした。
東京でのオリンピック開催に強く反対するわけではないが、招致キャンペーンの宣伝プロモーションは何だかヘンである。試しに、招致のプロモーションサイトの「メッセージ」を見てみていただきたい。
メインコピー。
今、ニッポンには
この夢の力が必要だ。
誰かコピーライターが書いたのだろう。日本のコピー文化独特のくさみが漂っている。
「この夢の力が必要」だとすると、招致できなかったらニッポンはどうなるのだろうか。ダメになるのか。
本文。
オリンピック・パラリンピックは夢をくれる。
夢は力をくれる。
力は未来をつくる。
これもコピー的な論理展開だ。いささか強引である。
私たちには今、この力が必要だ。
ひとつになるために。
強くなるために。
ひとつにならんといかんのだろうか。強くならんといかんのだろうか。ひとつになることはいいことなのだろうか。
ニッポンの強さを世界に伝えよう。
それが世界の勇気になるはずだから。
さあ、2020年オリンピック・パラリンピックをニッポンで!
オリンピックを東京で開催したからといって、それがニッポンの強さを世界に伝えることになるとは思えないし、ましてや世界の勇気になるとも思えない。自意識過剰である。
想像だが、おそらくこのコピーは東日本大震災の興奮のなかで書かれたのだろう。しかし、世間的な興奮が醒めてしまった今読むと、強引な空振り、あるいは単なる素振りに見える。そもそも東京は瓦礫の山になっていない。
おれ自身は、スポーツを安易に夢とか感動に結びつけるのはやめてほしいと思っている。スポーツはスポーツ、あるいはゲームとして面白ければそれでよい。まあ、スポーツを売りにするだけではスポーツに普段あまり興味のない人々を巻き込めないから、「夢を目指して」とか「夢が叶えられた瞬間の感動」とか「家族がどうたら」とか「みんなひとつになって」とか、他にも応用のきく物語を利用しているのだろうが、どうも安手でイヤである。そして、「夢」も「感動」も大量に売られすぎて、このところ価値が暴落してしまっているようにおれは感じる。
オリンピック招致委員会はもう少しマシなコピーライターを使ったらどうか。誰が書いたのか知らないが、上記のコピー、物の見方・考え方に深み・奥行きというものがまるで感じられない。