狐的

 おれにはいくつか疑惑のマナザシで眺めている言葉があって、たとえば「みんな」「民衆」「国民」なんていうのがそうだ。
 たとえば、NHKの「みんなのうた」。あの「みんな」というのは誰のことを指しているのだろうか。オバマ大統領は含むのだろうか? アミン大統領はどうなのだろう。いや、別に大統領にこだわることはないが。日本国内の視聴者だろうか。受信料を払っているみんなのうたなのだろうか。どうもよくわからない。
「民衆」というのもアヤシの言葉で、歴史の話なんかでもよく「当時の民衆は〜」などと出てくるけど、いったいどういう人のことを指しているのか、頭のなかでイメージしようとしてみて、よくわからなくなる。畑を耕している人と、漁師と、京あたりで小袖来て踊っている人とでは、全然違うと思うのだが。それを「支配層ではない人々」とひとくくりにしていいものだろうか。
 これが現代で語られる「民衆」あるいは「国民」となると、しばしばもっと意図的なうさんくささが出てくる。うちの郵便受けに挟んであった日本共産党のビラから。

日本改革の
ビジョンをしめし、
国民とともに行動します

 ともに行動できるほど一枚岩ではないから民主主義も選挙制度も成り立っていると思うのだが。
「国民の声を聞け」などと言う人がよくいるが、正確には「おれの声を聞け」あるいは「おれとおれがつるんでいる人々の声を聞け」であろう。「国民会議」などというものがよく現れるけど、あれもアヤシの会議であって、そりゃまあ、参加しているのは国民かもしれないが、その人々が別に国民を代表しているわけではない。虎の威を借る具合であることは明らかである。
 己の声を大勢、あるいは全員の声にすりかえるのは、わかってやっているなら卑怯だし、わかっていないなら考えが浅い。
 高橋秀実の「からくり民主主義」から、朝日新聞のテレビ欄に載った「声」。

さんまのスーパーからくりTV」(日曜、TBS)を見ているが、解答者のある女性タレントの「天然ボケ」にも飽きがきて、最近は彼女が答えるたびに腹立たしくなる。めったに正解を出さず、真顔でふざけた答えをされると、見ている人をバカにしているような気がしてならない。(二〇〇〇年八月三十日)

 見ている人ではなく、自分がバカにされているような気がしているだけではないか。もっと言えば、自分が飽きているだけであろう。この手の狐的すり替えはあちことに見られ、何だかナァと、民衆と国民を代表して声を大にしておれはみんなに訴えたい。

からくり民主主義 (新潮文庫)

からくり民主主義 (新潮文庫)