近松心中物の主人公に感情移入できない

 昨日・一昨日と文楽を見てきた。日曜が夜の部、月曜が昼の部という変則日程である。しかし、おれは四十五年間も現代日本で生きてきながらいまだに椅子に座り慣れないから、一日八時間も劇場の席に座っているのは辛く、二日に分けての観劇のほうが楽である。
 夜の部は「傾城阿波の鳴門」と近松門左衛門の「冥土の飛脚」。
 文楽については、少し前に近松の「曾根崎心中」を見た橋下徹大阪市長が「台本が古すぎる」「演出を現代風にアレンジすべき」などと語ったというニュースがあった。まあ、文楽ネタというより橋下ネタとしてヨロコばれる話で、己の浅さをさらして恥をかくという好例だが、白状すると実はおれも近松の心中物の主人公にあまり感情移入できないのである。近松門左衛門の心中物の男主人公は、言ってしまえばたいがいアホである。例えば、「冥土の飛脚」の忠兵衛は遊女の梅川に入れあげたあげく、意地(見栄)もあって客から預かっている金を身請けの金として使ってしまう。その身も世もない恋と意地、見栄のいかんともしがたさ、アホにならざるをえない悲しさに共感できればよいのだろうが、おれは人間経験が浅くてそこまではいけない。「梅川はなんでこんなアホに惚れたんだろう」などと思ってしまう。いや、今、己の浅さをさらして、恥をかいているんだが。申し訳ない。
 昼の部の「粂仙人吉野花王」は知らない話であまり期待していなかったのだが、存外に面白かった。これぞ文楽という感じで、笑えもし、色っぽくもあり、最後は豪勢な鳴り物のなか、大盛り上がり大会であった。
 で、最後に「夏祭浪花鑑」。文楽のものを見るのは初めてだったが、とても面白く、楽しい。主人公団七、老侠客の三婦(さぶ)、昭和残侠伝で言ったら池辺良と言ったところの一寸徳兵衛がいずれもカッコウよく、堪能した。脚本も演出もすばらしいと思う。橋下徹も「曾根崎心中」ではなく、こっちのほうを見たほうがわかりやすかったんじゃないか(まあ、意地と見栄のせいでやっぱり悪口言うかもしれないけど)。
 ただ、最後の最後、団七が舅への兇行に及ぶ長町裏の段で源大夫が語ったのだが、声が出ず、見ていて(聞いていて)辛いものがあった。最後は人間国宝の登場でシメる、ということだったのかもしれないが、祭り囃子の派手になるなか、声がかき消されがちだった。せめて若くてエネルギーの塊のような団七ではなく、舅の義平次をやったほうがよかったんではないか。あれ、こんなことを書くとまた己の浅さをさらすことになるんかしら。申し訳なひ、申し訳なひ。