競争と活気

 ちょっと買う物があって近くの大型電器店に行った。日曜日だというのに、各フロアに客が1人、2人という案配で、店員達が所在なげにしていた。人ごとながらこれでやっていけるのかと心配になった。
 まあ、おれの行った店の客が極端に少なかったのかもしれないが、しかし一部の情報家電を別とすれば、家電は今厳しいだろうなと思う。生活家電は買い換え需要を当てにするしかないだろうし、AV機器系はほぼ機能の需要を汲み尽くしてしまったように見える。パナソニックが「今のテレビはこんなに凄い」というようなパンフレットを出しているが、逆にそれだけ客がテレビに振り向いてくれないということなのだろう。
 よく需要と供給と言われるし、おれも今、「需要」と書いたけれども、人が物を買いたいと思う心持ちは需要という言葉の印象では表現しきれないように思う。何というか、あるジャンルの熱気に浮かされて買うということはあるわけで、たとえば、今のスマートホンがそうだろう。素になって自問自答してみれば、暮らしていくうえで必ずしもああいうものは要らない。しかし、ジャンルとしての活気があり、「こういうものが出た」「誰それも買った」というようなことがいくつも渦を巻いて、買いたいという気分にさせるのだと思う。ブルーレイやテレビではなかなかそんな気分にはならない。もうジャンルとしての活気時代は終わったのだろうと思う。
 おれは活気理論というのを唱えていて、以下の3つの条件が揃ったとき、ジャンルに活気が生まれ、技術なり、機能なり、表現なりが爆発的進化を遂げる。

1) いくつかの発見があって、技術上/表現上の展開可能性が見えてくる状況になる
2) プレーヤーが自由に参加でき、勝手にいろいろな実験が行える
3) プレーヤー間で何らかの形の勝負や比べ合いがある

 たとえば、かつて、60年代〜80年代前半までのロックがそうで、リズム、楽器の使い方、音の組み合わせ方、歌い方、パフォーマンスそれぞれに、いろいろな表現技法がわっと生まれた。そのわっと生まれる感じ、すなわち活気が人を乗せ、ジャンルとして巨大になったのだろうと思う。しかし、今では表現のスタイルがほぼやり尽くされてしまい、別に「ロックは死んだ」とまでは言わないが、これからは中位安定から衰退傾向で推移していくのだろう。もちろん、よい曲やよいミュージシャンはぽちぽちと出てくるだろうが、かつてのような活気は望めない。
 上記の3つの条件の中では3の「勝負や比べ合い」が重要で、経済の用語で言えば「競争」である。競争と言ったって、必ずしも倒すか倒されるかということばかりではない。「あー、あやつ、あんなことをして受けた」とか、「あの会社、こんなの出して、売れた」とかいうことに対し、「んじゃ、こっちはこれでどうだ」とか、「この機能で対抗しよう」と反応する。「受ける(売れる)」ということについて他者に刺激を受けて別の手を繰り出す。そういう状況があちこちで生まれたとき、ジャンルとしての活気が生まれるのだと思う。
 最初にも書いたように、AV機器の活気時代というのが少し前まであったが、残念ながらおおよそのことはやり尽くしてしまったように見える。あるいは、上の3条件(の終了)に加えて、人の興味が他に移ってしまったということもあるのかもしれない。何というか、「受けない」となると、あっという間にそのジャンルから活気が失われてしまうのだ。そういう意味では、上の3条件を包むものとして、人々の熱視線というものが重要だ。プレーヤーの活気とそれを消費する人々の活気というものが相互に作用したとき、爆発的進化が生まれる。そういう意味では、この世は劇場だ。