ダンス・ミュージックじゃもう踊れない

リオ会議におけるウルグアイ・ムヒカ大統領の演説の日本語訳を読んだ。先週、友人がFacebookで紹介していたものだ。

リオ会議でもっとも衝撃的なスピーチ:ムヒカ大統領のスピーチ (日本語版)

 訳された方は「衝撃的なスピーチ」と書いていらっしゃるけれども、内容はそう衝撃的ではなく、同じようなことを考えている人は結構いるんじゃないかと思う。おれも漠然と考えていた。

 ムヒカ大統領の言っていることのポイントをおれなりにまとめると、こういうことである。現代のグローバル経済は人々の欲望を刺激し、消費させることによって成り立っている。先進国の作りだしたこのモデルが発展途上国にも広がりつつあり、欲望の短期的充足のために人々は消費し、そのお金を稼ぎ出すために労働するようになっている。しかし、そんなやり方がいつまで持つのかね?

 7月29日時点でFacebookでは「like(いいね)」ボタンが64,000も押され、38,000ものシェアがされている。同感している人が多いんじゃないかと思う。

 しかし、とおれは思うのである。訳文へのいいねやシェアを押した人の多くが日本の消費社会で暮らしている人なのだろう。消費社会にどっぷりと浸かり、スマホを買い、オリンピックをデジタル放送を見て、ブルーレイを買い、マイカーを持ち、飛行機で海外に観光に行き、ヨーロッパのきれいなおべべを着る。そういう人が先進国の消費モデルの世界中への広がりを憂えるのには、ベロベロのヨッパライが、酒を飲み始めたガキに酒の害をとくとくと説くような滑稽さがあると思う。「あのネ、ヒック、酒というのはだな、体に悪いゾ〜。こんな大人になっちゃいけない、ゾ〜」てなものである。いや、自分はそんなに贅沢しておりません、という人だって、たいがいはそうした消費社会の恩恵を、少なくとも間接的に受けて生きている。まあ、たとえば今の公益サービスも消費社会のおかげだし、仕事だって消費社会のおこぼれをもらって成り立っているものが多い。

 一方で、欲望の短期的充足の空しさをどこかで感じている人も多く、それがいいねやシェアの数に結びついたのだろう。ヨッパライが酒に溺れる空しさを酔っ払いながら感じているようなものである。

 おれ自身のことを言うと、疲れているのか飽きているのか、新しいなんたらかんたら、みたいなものには今ではほとんど惹かれない。スマホもブルーレイもいらないし、新機能がどうのと言われても興味がわかない。しかし、Amazonは使うし、週末には(ブルーレイはいらないけど)DVDで映画を見るから半歩遅れてか一歩遅れてか三歩遅れてか知らないけれども、欲望をそれなりに刺激されてヨッパラッているのだろう。まあ、もうこのあたりで十分満足してます、という感じはある。

 たいていの商品開発というのは欲望をどうやって刺激するかに注力するけれども、そういうあれやこれやにおれはやや空しさを覚えている。そんなダンス・ミュージックはもう踊りたくないという感じだ。しかし、踊らないとオアシがいただけないので、しょうがなく踊っている。足がもつれつつある。

 ムヒカ大統領の演説についてはもう少し書きたいことがあるので、またいずれ。