成長パラノイア

 外出先で読む本がなくて本屋で適当に買った本が案外とよかった。

イギリス近代史講義 (講談社現代新書)

イギリス近代史講義 (講談社現代新書)

 イギリス史の川北稔が編集者相手に7時間前後しゃべった内容をまとめたものだそうだ。そのせいか、内容は広汎で、やや雑駁なところがないでもないが、概説書としてわかりやすかった。
「イギリス近代史」ではあるが、歴史上の有名な人物の事績や政治的事件はほとんど出てこない。それらを引き起こした全体のシステムを主に扱っている。
 おれにとって特に興味深かったのは「成長パラノイア」という考え方である。以前から似たようなことをおれも漠然と考えていたので、「当たった」と感じた。
「成長パラノイア」というのは「成長せねばならぬ」「発展は素晴らしい」「進歩は素敵だ」という強迫観念で、今の世の中はおおよそこれに塗り固められており、あまり疑問に思う人もないようだ。しかし、この強迫観念にとりつかれたのはせいぜい数百年程度の話であり、人類の長い歴史を考えてみるならばごく短い期間である。
 川北先生の意見では成長パラノイアの起源はヨーロッパであり、なかんずくイギリスだという。条件は3つある。生活水準の上昇志向、ヨーロッパの国家間の競争、統計である。
 金が入ったらそれで食えるから次の日は休む、という考え方から、金が入ったらそれでいいものが買えるからもっと働く、という考え方にイギリスでは18世紀頃に変わった。これには新奇な産品がいろいろと登場したことや、ファッションも関わっているらしい。要するに、消費の魅力に気づいたということですね。
 国家間の競争というのはヨーロッパの特殊条件で、中国やオスマントルコのような帝国内には競争意識は生まれない。いざ戦争になったとき勝てるように国力を高めるという競争がヨーロッパの国家間にはあり、それが「経済成長せねばならぬ」という強迫観念へと結びついた。この国家間の競争ということについては現代の先進国やそれに次ぐグループにも言えることで、見方を変えればヨーロッパで始まった競争意識に他国が巻き込まれていったとも言える。まあ、だから成長パラノイアが今、世界中に浸透しているわけですね(浸透していない国もおそらくあって、幸せな部分もあるかもしれない)。
 で、国家間の競争を支えたのが「政治算術」と呼ばれた統計技術で、これは要するに将来の国力を推し量るシミュレーションだ。「む。このままでは我が国はやばいぞ」とか、「いずれ我が国はかの国を抜く」とか、成長の重要性を強く意識させることになった。もっとも、統計の登場で競争意識が高まったのか、競争意識が高まったから統計技術が進んだのかは鶏と卵の関係ではある。
 成長パラノイアについて、おれ自身はどっちつかずの意見である。成長パラノイアが人間の歴史の中では特殊な状態であるとは思う。そうではない行き方もあるだろうし、成長パラノイアの果てがテレビの解像度が上がったとか、スマートホンの何とか機能だとか、素に戻ってみれば「どうでもいいんじゃない、そんなこと」と感じる。「この先どうなるのかね」と急流下りをしている気分にもなる。一方で、下水道のような公衆衛生とか、医療システムだとかは、少なくとも今のところは自転車操業的な経済活動がなければ維持できないだろう。乳幼児の死亡率を抑えたり、苦痛をやわらげたりするシステムを維持するのはなかなかシンドいのである。
「別に成長しなくてもいい」という考え方は甘美だ。気が楽になる。しかし、ジョン・レノンがイマジンで描いたような世界は、おそらく乳幼児が簡単に死に、腹痛がひどくても薬が手に入らないような世界でもあるのだろう。