統制主義、裁量主義、ルール主義

 以前から疑問に思っているのだが、左翼、右翼という分け方は有効なんだろうか。いやまあ、無意味とまでは言わないが、ちょっと流布しすぎているように思う。
 yagianも書いているが(id:yagian:20120508)、左翼と右翼は実は近い。左翼も右翼も、ある方向性に向かって集団あるいは突出した個人が全体を動かしていこうとする点では同じで、その集団が政治権力を握れば統制主義となる。ただ左翼は、平等な人間が協力しあえばよりよい社会を実現できる、という虚構を信じ、右翼は、国家を作り上げた偉大な人間集団(しばしば民族)の意志を継ぐ、という虚構を信じているところが違うだけである。統制という実際的な形態については同じだろう。
 通常、政治信条はこういうふうに考えられることが多い

左翼 - 中道 - 右翼

 しかし、こういうふうに整理したほうが本質が見えやすいのではないか。

左翼
  \
   中道
  /
右翼

 左は統制主義、右はその他である。中道はまあ、いろいろな立場があるのだが、その中にはルール主義も含む。
 あるいはこういうふうに整理してみたらどうだろうか。

統制主義(左翼、右翼) - 裁量主義 - ルール主義

 国家あるいは社会としての強い締め付けを行うのが統制主義で、戦時の日本もソ連もその点では同じである。「民族」なるものを打ち出すかどうかが違うだけで、実質的には看板の違いのように思う。
 統制主義をもう少し弱めて、特定の集団(戦後日本の場合は主に官僚)が全体を恣意的に動かすのが裁量主義である。かつての大蔵省の銀行政策とか、特定の企業と組んで研究開発を進める経済産業省とか、実に裁量的である。あるいは、旅先で恣意的に善悪を決めて歩く水戸黄門や、「おかみにも情けはある」などと司法の責任者が法治主義を平気で破るお奉行系の時代劇にも裁量主義を是とする心証がよく表れていると思う(水戸黄門もお奉行系も、英知のあるおかみがしもじもを何とかしてくれるという図式である)。裁量主義の問題点は、全体から集めてきたリソース(主に税金)を少数の集団が自分達の価値判断や見通しで恣意的に使ってしまうところにある。
 ルール主義は政府がルールだけ決めて、参加するプレーヤーに平等に当てはめるものである。市場(原理)主義などと言われるものはこれの一種だろう。ルールは決めるから後は勝手に勝負をつけなさい、という点ではスポーツに似ている。その伝で言うと、プロレスは裁量主義、あるいは八百長や空気で勝負が決まるところもある相撲も裁量主義かもしれない。統制主義は演出家が全体を決める演劇のようなものである。
 以上、自分なりに整理してみた。