保守とは何か

「保守的」という言葉がある。なかなかに複雑多岐に渡っていて、捉えがたいように思う。
 例えば、1980年頃の英米の首脳はサッチャーレーガンで、二人とも超保守派と言われた。一方で、中国共産党にも保守派と呼ばれる人がいた。サッチャーレーガン中国共産党の保守派ではもちろん主義主張がかけ離れているのだが、前代の政治体制との関係もまた随分と違ったと思う。これらを「保守」と同じ言葉でくくっていいものなのか、ややこしい。
 おれが思うに、保守という言葉には4つの要素がある。いや、5つ、6つ、7つ…とあるのかもしれないが、おれの頭の性能では4つ見つけるまでが精一杯であった。他にもあったら教えていただきたい。
 まずひとつめは原理としての保守である。人間の頭で考えられることなんぞたかが知れているのだから、これまでの制度や習慣を大切にして、直すべきところは少しずつ直していったほうが大失敗はなかろう、なぜなら制度や習慣はうまくいくものは残し失敗したところは変えるというミクロの漸進的な試みの積み重ねでできてきたものだから、とまあ、そういう考え方である。イギリスの経験主義というのがそういうものなのかもしれないが、おれはよく知らない。
 次に主義としての保守である。これはまあ、主義主張であって、内容は社会や階層によっていろいろだが、こっちのほうに進むべきだと方向性を示すものだ。
 それから、心情としての保守がある。毎度威勢のいいことを言ってウケているどこぞのおばはんみたいな例もあるが、もっと哀切な例もある。たとえば、ある産業が栄えた地方都市があったとして、時代の波を受けてその産業がダメになり、隣近所のおじさんが仕事をなくしたり、その人たちのお金がまわっていた店がつぶれて悲惨な話を聞いたりする。そういう情景を目にし続けると、変化を嫌い、保護を求めるふうになりがちだと思う。政治経済的には既得権益と一刀両断に片付けられるし、実際、お金の回り方だけを見ればそう言えるんだろうけど、「権益」などという成金のウハウハ顔の浮かぶような表現ではくみ取れないものがあるようにおれは思う。
 最後に、面倒くさがりとしての保守がある。おれがそうで、とにかく変革だの革新だの、面倒くさいのである。どうでもいいじゃないか、菜の花は相変わらずきれいなんだし、と、そういうやる気のなさから来る保守である。まあ、「面倒くさがり」とふざけたわけて書いてみたが、これにもなかなかやりきれない部分があって、なかなか変化に対応できない人はどうするのか、という問題がある。一昨年、京都に住んでいたのだが、京都の伝統産業の職人さんの話はなかなか厳しいものがあった。西陣や友禅はもう売れなくなって、廃業する職人が増えた。何十年とその道の技のみを磨いてきて、では食えなくなったからといって、他の技術を簡単に身につけられるものでもない。結局、未熟練でもやれる低賃金の仕事を探すしかない。そういう人たちに「これからはIT産業だから」とそっち方面の技術を教えようとしてもなかなか覚えられるものではないし、恐怖と不安があるだろう。そういう人たちに対して「変化に対応できない人間は死すのみだ」というような言い方をする人もいるが、引っかかる。たとえて言えば、学校の勉強のできる人間ができない人間を「努力しないのが悪い」と片付ける傲慢さを感じる。何十年とひとつことばっかりやってきた人は、それは怖いだろう、他の分野に移るのは。
 ちょっと話がそれたが、上記の4つはもちろん絡み合っているのであって、原理としての保守を押す人は主義としての保守になるだろうし、面倒くさがりの保守は心情としての保守とつながりやすいだろう。心情としての保守は主義としての保守に至る。
 まあ、だからどうすべきだ、みたいな意見は特にない。貿易の自由化がどうの、捕鯨がどうの、といった主張はおれにはないし、馬鹿が具体的な主張を始めるとろくなことはなかろう。ただ、保守とは何だろうと考えてみただけである。