おのれの意見を一般化しようとする気恥ずかしさ

 Wikipediaは一応百科事典ということになっていて、ある程度客観性を保つことが重要な方針となっている。誰でも書き込めるのだが、書き込む場合は出典を明らかにできるなどの条件があり、客観性を担保しているかどうかボランティアの人が確認してまわっている。
 しかし、単なる自分の意見や感想を書き込む人が後を絶たないようだ。自分の意見や感想を客観的に見せかけようとするのだろう、「〜という声もある」とか、「〜と言われている」などという言い回しをよく見る。そういう書き込みを読むと他人のやったことながらおれは気恥ずかしく思う。客観的に見せかけようという分だけ、みっともない。ミュージシャンとか芸能人とか歴史小説とか、熱狂度の高い分野にその手の書き込みは多い。
 例として、司馬遼太郎の項を挙げておく。「作家評」のところなんて、ほとんどファンの集いである。

Wikipedia - 司馬遼太郎

 自分の意見が公の場で客観的に定着して見えることが、その手の書き込みをする人にはうれしいのだろう。気持ちはわからないでもないが、読めば客観的かどうかはすぐわかるから、やはり愚かしく感じる。だいたい、「〜という声もある」なんて、書き方として拙劣である。
 時には先に書かれたことへの別の意見を述べたくなる人もいるようで、「〜である。しかし、〜という意見もある。しかし、やはり〜という声もある」というように、否定に否定を重ねた奇妙な文になっていることもある。
 まあ、何というか、人間のしょうがない部分と捉えることもできるが、やはり、みっともない。